ゆる言語学ラジオの中でとある本が紹介されていた。
この本はちょっと前にXなどでも話題になっていた本であり、謬説ナイトという今回のテーマの主役になっている一冊である。
この本は自分も読んでおり、とても面白く読んだのだけど、それ以上にキツかったことが……教育の語りって全部こうなるじゃないか…ということである。
必ずしも再現性が大切なわけではないけど…
教育の実践記録や実践報告、そして実践研究まで、教育を言語で記していくということは非常に難しい営みである。
「教育に再現性なんて必要ない!!」とまで言ってしまうのは明らかに誤りになるだろうし、逆に再現性に囚われていたら、目の前にいる子どもたちの切実な実態を見落としてしまう可能性は大いにあるだろうと思っている。
ちょうど、苫野先生もこのようなツイートをしていた。
教育は、とにかく「根拠、俺」がはびこる世界。
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2024年5月8日
そして誰でも語れてしまう世界。
だからこそ、自分の限られた経験を超えて、歴史的・世界的な視野から教育を見る必要がある。
「根拠、俺」にならないように、実証的な研究にもある程度通暁している必要がある。
「根拠、俺」の語りを自分だってしてしまっている。そこから脱却することが非常に難しい。
もちろん、その難しさに甘えて、丁寧に誠実に語ることを甘くなったらいけないのだろうと思う。
特に、教育論文を書こうと考えるのであれば、丁寧に丁寧に研究史や実践史を紐解きながら、自分の実践が一体、どういう意味を持っていて、何を伝えていけるのかということを説明しようとすることに誠実でなければいけないだろう。
そのあたりの厳密な議論としてはやはり苫野先生のこの一冊をじっくりと学ばなければいけないのだろう。
ただ、現場の教員が、自分の授業を語っていくときにはこのハードルはかなり高いなぁ…と思う。
一人称の語りを自覚しながら
学問的に強度のあることを記録するばかりが、教育という営みの魅力ではないだろうとも思う。
自分の語りが、自分の願いと自分の見たいものを見つめた語りを自覚した上で、しっかりと緻密に語ろうとするのであれば、その語りの残す記録には強い魅力があるだろうと思っている。
むしろ、現場の教員ができることは、そういう力強さのある語りであり、それぞれの教員の持っている世界観にこそ惹かれるものがあるのではないか。
少なくとも周りから揶揄されて卑下するようなことではないだろう。一方で、その語りを祭り上げるかのようなことも避けなければいけないし、自分の語りが常に自分の世界しか表現できていないという自覚も持つべきだろう。
ただ、生きた実践記録って、読んでいて面白い。再現性だとか正確さだとか客観性を超えたところにある、力強い信念のような、そういう語りにこそ魅力を感じるのである。