ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

教員の専門性について

すっきりしない天気が続いて、気分もあまり晴れないせいか、つまらないことばかり考えてしまいます。

昨日、こんな記事を読みました。

yacchaesensei.hatenablog.com

自分も以前に愚痴っぽいことを書いたことがあります。 

s-locarno.hatenablog.com

今回は、この続編的に、Yacchae先生の記事を踏まえて、適当なことを言ってしまおうと思います。

教員の知識量は専門性だとは思わない

ブログでもTwitterでも言っているけど、教員の知識量は別に教育の専門性に直結しているとは思っていない。 

s-locarno.hatenablog.com

ICTなどを活用すれば、知識の獲得ということに関してだけ言えば、教員の講義よりもよい手段が生まれてくるかもしれない。

現状であっても、「学校はしつけ、勉強は塾」なんて言い方をされることもあるくらいなのだから、教員が知識の量を誇ったり、授業のうまさを競ったりしても、学校の外から見れば、それほど評価されないのかもしれない*1

まあ、これは冒頭で紹介した記事にも書いたのだけど、自分がろくに文学や評論を大学で勉強してこなかったから、酸っぱいぶどう理論で無いものをねたんでいるだけなのかもしれないけど。

部活動と事務仕事

授業よりも部活動と事務仕事をやっている時間が多い教員が多いのだから、いっそのこと部活動と事務仕事と併せてついでに授業までできるのが教員の専門性なのかもしれない。

事務やら指導員やらを別に雇うと非常にコストがかさむわけですが、それをすべて一人で回しきることができるのであれば、非常に効率は良いわけですね。

仕事の多さはどの仕事も大なり小なりあるので、教員だけが特別に忙しいとは言いませんが、カバーしなければいけない範囲の広さと負っている責任の重さは中々厳しいものがあるなぁとは思うので、そんな厳しい条件の中ですから、問題を起こさないで日々生活するということは教員の専門性として大事なことですね。

嫌味を書いてみて思うけど

以上は、ただの嫌味です。教員の人のよさに付け込もうとする声の大きい人たちに合わせて仕事をしようとすれば、授業は「ついで」にやるものになるし、何よりも優先事項は「面倒なことをしないこと」になってしまうということを言いたかっただけです。

ただ、こうやって意図的に嫌味なことを言ってみると思うが、やっぱり押しつけられている仕事の量と範囲が広すぎるなぁということや、それによって授業について考える余裕が確実に減らされているなぁということ。

でもね、最初に書いたように、別に「学校には勉強は求めていない」という層が一定割合いることを考えると、「授業で勝負させてくれ」という主張をしても、きっと、それほど共感はされないんだろうと思う。

だって、知識を習得することは「学校の授業」だとは思っていない層からすれば、都合よく使える労働力を手放すメリットがない。

教員が「授業が専門性です」と言っても、非常に空疎に響くだけだ。その専門性がせせら笑われていることを見ないフリしてはいけないように思う。

それでも、教員は

それでも、教員の専門性は「授業」だと言えるだろうか。

授業と言いたいだけになっていないだろうか。

どうして部活動問題がなくならないのかといったら、授業よりもよほど部活のほうが教員に期待されているからなんじゃないか?安い労働力としての顧問。余計なことはいってくれなくていいから、責任と労働はしてくれという。

非常に自分で書いていて情けない話である。

しかし、ここまで書いても、それでも、自分は教員である以上は「授業」を専門性として主張していくしかないのだろうと思っている。

自分の関心や暴れる場所(笑)は、確かに最近は教育改革関係のところにあるし、それに乗じて何とか自分のやりたいことをやるだけの準備をしようとはしているのだけれども、でも、結局、そういう大きな話は、ほぼ新人、駆け出しの教員、専門性の一つも持たない一教員が議論に参加したところで大した意味があるものでもない。

結局、日々、対面している子どもに「授業」をすることしか選択肢がないのだから、やはり授業を徹底して考えていくしかない。

でも、授業への期待値がそれほど周りが高くないのだとしたら……それであれば、丁寧に実践を積み上げて、我慢強く成長を見守りながら、授業を専門性と呼ぶに堪えるだけの、理論や実績を作っていくだけなんだろうな。

授業をやれるということ、それが迷いなく「教員の専門性だ」と呼ばれるような授業とは何か、どうして教員免許が必要な授業があるのか、そんなことを説明できるようになりたい。

ま、勉強します。 

教育問題はなぜまちがって語られるのか?―「わかったつもり」からの脱却 (どう考える?ニッポンの教育問題)

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*1:学校の授業が不要だと言っているのではないです。ただ、学校に別に勉強を期待していないような人もいるよねという話です。

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