相変わらず迷走中の「山月記」です。
小説をどう読むのかということについて自分にはっきりとした基準や信念がないのが苦しいところだ。
理解するってどういうこと?: 「わかる」ための方法と「わかる」ことで得られる宝物
- 作者: エリン・オリヴァーキーン,山元隆春,吉田新一郎
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2014/10/01
- メディア: 単行本
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こういう本を読むと、読むことってちゃんと心理学的に裏打ちされた「深く読む」ということの形があるんだろうなあとは思うけど、それらを総合して結局、どこに向かって走っていけばいいかということに悩みが尽きない。
折よく、こういう話が出てきたし。やっぱり考えなければいけないなぁと思う。
読まない生徒に深い学びは…
前提として、現状、頭が痛いのが「本文を読まない」ということだ。「山月記」の語彙の難しさに読む気が起きないという。そりゃあね…読まなければいけない必然性はやっぱり生徒にはないからね…。
こういう本もあるけど。
やっぱり結局は別物なんだよね。あの中島敦の漢文の素養に裏打ちされた文体だからこそ、生徒にとっては少しの背伸びであるし、オリジナルを読む良さがあるわけだし。
粘り強くクラス内で「対話」を作っていけば、読もうとしない生徒も読むようになるんだろうか?
でも、結局、深い学びが実現されるためには、小説をどうやって自分で解釈していくのかという過程での悪戦苦闘が必要だと思うんだけどな……。
それとも悪戦苦闘の前に対話を通して「このことについて考えたい」というモチベーションを高めることが先なのかなぁ…。
それでも少しずつ考えているから
毎日の授業の中で少しずつではあるけど、考えようとしようとしている生徒がよく考えた意見を述べて、単純に正誤だけを気にしたような回答とは違う読み方を教室に提示してくれる。
そうした考え方を受けて、授業内で「どのような読み方があるのか」ということをふりかえってもらうことで、読むことの技術について少しずつ勉強していけているんだろうなぁという感じはある。
自分の読みを検討し、他の読みとすり合わせて、新しい読みを開いていくことや、読み方そのものをじっくりとメタ認知していることも何となく見えている。
しかし、苦しいね。
考えていない生徒があまりに最初の段階から動いていない。たった30人に全員、きちんと個人個人の学びを期待したいということが、まったくもってくるしいものである。
また、日々のふりかえりのなかでも個人の考えでもよいものはあるのだけど、それを上手く共有するチャンスがないのも難しい。
振り返りを書いているのはいいけど、その振り返りがあまり連続していかないのももどかしい。
色々な手段を尽くしていかないといけないかも…ね。