今日、保護者会の合間に教科書の献本を整理していたら、上の写真のような教科書の記述を見つけました。
これは、桐原書店の『新 探求国語総合 現代文・表現編』の表紙裏の記述です。
さすがに全部写真にとってアップロードはできないので、ぜひ学校の職場でご覧になってください。
国語の教科書がこうやって言語技術の典型的なものを示して、そして教科書の単元で練習させるようなものが設定されているということが面白いなぁと思いました。
簡単には語れない言語技術
国語科の言語技術に関する問題は、「国語の学力とは何か」という議論と表裏一体なところがあり、割と根深い問題である。
そして、国語科内の定義や考え方だけでは済まない部分もある。例えば、現行の学習指導要領で国語科は「言語活動の中核」として位置づけられるわけだが、国語科の授業が他教科での「表現力」を支えるものになっているかというと、「読むこと」に偏りがちであり、批判されやすい。実際に、アカデミックライティングのようなことをやるべきだ、言語技術としてやるべきだというような意見は根強いし、次期学習指導要領も「実用」に寄せられた部分も少なからずある。
古くは時枝誠記が『改稿国語教育の方法』で国語教育は言語技術の教育だと述べている*1。
国語教育の外側からも
で、国語の作文教育への疑問が投げかけられているのも有名だろう。
今回は「読むこと」の技術であるので話を広げすぎないでこのくらいにしておこう。
読むことの技術と読解力の問題
読むことの技術(特に入試問題を解くために使うようなもの)がそのまま読解力と呼んでよいのかということは正直わからないし、どちらかと言えば否定的な気持ちはある。
もちろん、定義の切り取り方で変わりうる話であるし、冒頭の写真で紹介したものがそうした「形」だけの定義だとは言わないのだけど、自分としては「読む技術」については、以下の本のようにもう少しダイナミックなものであると思いたいのです。
読むという行為は自分を読むというか、自分をつくり出すプロセスそのものと言えると思います。ゆえに、主体性と責任を伴うわけですから、決して受動的に誰かの解釈を受け入れるようなものではないということです*2。(P.44)
こうした読みのダイナミズムを大切にしたいという発想は国語科教育としても研究されており、河野順子先生の
において、「葛藤」という概念を手掛かりに「批評読み」ということを提案されている。
説明的文章の学習指導の改善には、他者との間で引き起こされる葛藤(感情的経験)の問題が重要であり(中略)このことは、説明的文章の学習指導で育てるべき論理意識や構造意識は、学習者の内なる葛藤を契機に、実感として育てる必要性をも示唆してくれる。
やはり、読みというものが静的なものではないと思わされる。
型として取り出せるものはあるとしても、その型を「武器」として扱っていく、つまり、読みを作るための手がかりになればいいかなぁと思うのです。
こういう手がかりから自分の知識と文章を関連づけたり、文章の意味を解釈したり、自分の意見と他人と比較したりという思考を育てることに意味があろうと思うわけです。例えば、この辺りは「深いアプローチ」と呼ばれるようなものに発想は近くなり、それなりに思考としては高度だろうと思う。
「深いアプローチ」
- これまで持っていた知識や経験に考えを関連付けること
- パターンや重要な原理を探すこと
- 根拠を持ち、それを結論に関連付けること
- 論理や議論を注意深く、批判的に検討すること
- 学びながら成長していることを自覚的に理解すること
- コース内容に積極的に関心を持つこと
(P.45)
教科書の変化は面白いし早い
反省の意味も込めて主張しておきますが、国語科の教科書は現行の学習指導要領のあたりからかなり色々と変化しています。今回の記事で紹介したものもその変化の一例です。自分も今日まで気づかなかったので本当、反省。
意外と「今の時代にこういうことは大切なんじゃないか」という観点は教科書に活かされていることがあるといえます。
ただ、重要だなぁと思うのが、こういう風に使いやすい形でまとめられているものを、教員の方がいかに使いこなせばいいのだろうということです。もちろん、指導書はかなりその意味ではヒントをくれるだろうと思う。
ただ、たとえば「言語技術」ってなんだろうと考えだすと、おそらく、単純にパターン化して解釈の仕方を教えるだけでは、国語科の教育実践の積み重ねからすれば不十分だろう。そのことにどれだけ自覚的に、生徒の思考を促すことができるでしょうか。
ま、原理的に一斉授業のスキーマでは無理ですよ(小声)