SNSのタイムラインを眺めていると授業開きが盛んに流れてくる。
あぁ……新学期の授業開きはいいものだなぁ。
ただし、他人のを見るに限る
授業開きの丁寧に生徒を迎えようとする様子を見るのは気分の良いものである。その教室で生徒が大切にされているのだなぁと感じるのが、とても気分が良い。
日常的には、生徒を虐げるかのようなことを周囲で見ることが多いので……。
だから、新学期の授業開きの様子はよいものだなぁと思うのだが……それは他人の授業開きを傍観しているのに限る。
自分が授業開きをするとなると……もう、本当どうしたらいいかと苦しむのである。
生徒との最初の出会い方ってとても大切よ……。その後の授業で生徒を委縮させることなく、のびのびと授業を受けてもらえるかどうか……。
生徒に最後の授業の時に色紙を渡されて、そこに「初めて授業を受けたときにヤバい人だと思いましたが、今はもっと別の意味でヤバい人だと思ってます!」なんて書かれた悲劇を繰り返してはならない。
あれもこれもやりたいが
しばらく授業を自分がやっていなかったこともあるし、卒業していった生徒たちは三年間も一緒にやってきたので、もはや、やりたいことはお互いにストレスなくやれていたので……またゼロからやるのが結構緊張する。
自分自身が三年間で一回りしているのに、自分の授業の質が下がってしまっては、これからやっていく生徒には申し訳ないのである。
その一方で、これまで自分がやったことをただ単純に反復する気がない。だから、同じようなことはするし、使える使用は使いまわすけど……でも、新しくつくり直すものの方が多い。
新しくつくり直すということは、ある程度上手く行ったことを捨ててでもやることなのかなと自問自答はある。
でも、あれもやりたい、これもやりたいという思いややれそうなことがあるから、やっぱり自分の今までを脱ぎ捨てていかなければならないのだろう。
生徒が春休みの宿題で書いてきた作文を読んでいて、とても微笑ましく思うのである。「あぁ…全然、書きたいことを書いてないんだなぁ」と。
ここから、もっと自由に、自分の言葉で、好きなことを表現できるようにしてあげられるだろうか。
たった一年間で70回くらいの授業である。どこまでやれるだろうか。