色々と考えてみたけどシンプルに「詩を書く」授業を数回でサッとやろうという気持ちに傾いたのである。
肩の力を抜いて自由に楽しみを…
生徒の様子を見ていると非常に余裕がない。
だからといって勉強に一生懸命というわけでもない(失礼)。なんとなく毎日が忙しくて、息苦しい様子なのである。あまり追い詰めても仕方ないよなぁ……と思うのである。夏休み前で授業のないクラスもあるので、完全に型の力は抜いて良いかなぁ……という気分である。
おそらく、良くも悪くも遊びがなく詰めて詰めて授業をやってきた。だから、本当に生徒に贅沢に時間を費やして考えてもらう時間がなかったように思う。
当ブログにあまり実践の話が今年になって上がってこないのは、面白いことをやっていないから。地味で効率的で何処かで行われた実践の焼き直ししかやっていないから。
そりゃあ、自分も面白くないし、生徒だって……まあ、それほど面白くなかろう。
だから、ちょっとここで肩の力を抜いてラクな授業をしてみたい。生徒に余裕が生まれたときに、見えてくるものがあるような気がする。
中学校までの国語の授業だと、「登場人物にインタビューしてみよう」だとか「登場人物に手紙を書こう」だとか、まさに作品に入り込む形の単元が色々実践されているけど、高校になると途端にそういう授業や単元は見られなくなる気がする。自分も少しやる勇気はない笑
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年7月2日
でも、もう少し、こういう小中学校のような読み浸る、作品に入り込むような授業はあっていいよなぁ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年7月2日
まあ、こういう気分なのですよ。
ちょっと遊びがあることを、でも力になることをやろう。
コンパクトに、色々やれることを…
コンパクトにまとまりながも、やれることが多くあるのが「詩」だろうと思う。まさに言葉が濃縮されたものであり、生徒が学ぶことは多いだろうと思う。
なかなか詩をちゃんと扱う余裕も普段はないからね……少しでも色々な言葉に触れて欲しいと思うと、やはりここで詩だなぁと思う。
色々な種類の詩を色々と読んでもらうことから始めて、「詩」らしさとは何だろうということを考えてもらったり表現の工夫や効果に注目してもらったりしながら、自分でも書くことに挑戦してもらうことに繋げていこうかなぁと。
いきなりむやみに詩をかけと言われて書けるとは思わないので、今回は何か手掛かりを元に想像を膨らませる形でやっていければいいかなと思っている。
イメージとしては、谷川俊太郎のクレーの絵の詩のようなイメージ。
絵に対して詩をつけるようなことであれば……簡単ではないけど、かえって色々な言葉の技術も教えられるきっかけにもできそうで面白いかもしれない。意識としては二学期には短歌をやるので、その短歌を読むための前段階としての練習もかねて……。
この本の最初が「写真を見て短歌を詠もう」なのもヒントになっている。
写真よりも絵の方がたぶん言葉を拾うことが難しい気がする。でも、そうやって自分の世界をつかみ取る言葉の意識がきめ細かくなっていく過程が大切な気がする。
ついでに、シソーラスなども紹介して使わせてみたら面白いよなぁと思っている。
ちゃんとこういう道具があることも教えられていないのが今年度。とても貧しい気分なのです。自分が汲々としている。
たぶん、ペンネームで書かせるかなぁ……匿名の世界で、普段の自分とは違う非日常へ……その非日常での創造力が羽ばたく瞬間を期待してみたいのである。日常に窮屈な思いをしているように見える生徒たちへの処方箋として。
自分も一緒に書いて悩んでみよう。