ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

生徒たちが戻ってきた

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やっと分散登校で生徒たちが戻ってきた。自分の直接関わる生徒が戻ってくると、いよいよ学校らしいという感慨がある。

今までの陰鬱な気持ちが吹き飛ぶくらいには、活気が戻ってきたようには思う。一方で、これから考えなければいけないことも多く……。自分も高揚していたせいか、夜になってその反動のせいか、非常に体調が下り坂になっており……。生徒も同じように浮き沈みがあるかもしれない。色々と慎重に進めたい時期だ。

顔を見て分かること

オンラインでは一ヶ月以上、ちゃんとやりとりを続けていたので、生徒に変わりが無いことも知ってはいたのだけど、それでもこうやって直接空間を共有すると画面だけでは分からない微妙なニュアンスも分かる。

生徒同士も、ソーシャルディスタンスを気にしながらも、これまで話せないでいた時間を取り戻すかのように、生き生きとお互いに話している様子を見て、とても嬉しく思ったのである。

まあ……学校でソーシャルディスタンスを保つことがどれだけ厳しいかと言うことも同時に思い知りましたけど……。

この休みの時期に、石川晋先生の

学校でしなやかに生きるということ

学校でしなやかに生きるということ

  • 作者:石川晋
  • 発売日: 2016/08/10
  • メディア: 単行本
 

を何度も再読していた。

この本で描かれているような学校が再び戻ってくるのだろうかということに多くの不安を持っている。お互いに学び合う姿や「雑木林」のようなあり方が「新しい生活様式」なるものに駆逐されるのではないかというような不安を思うのである。何か社会の不安に必要以上に同調して、やらなくてもよいことをやり、やるべきことが見えなくなるような、そんな自己検閲を自分がしているのではないか……そんな気持ちがぐるぐるとしている。

暦ではなく人を人を見ようよ

学校再開に向けての議論で、いつも違和感を感じているのは、「学力保障」と言いながら、生徒の生活ではなくてカレンダーばかり見て議論しているように見えるようなことばかりが次々と決まってくることだ。

夏休みを大幅に削り、真夏に授業などを行う、授業数を大幅に増やす、補習を朝の時間に行う、行事は感染予防でやらない……確かに、コロナで起ったことを取り戻そうするのであれば、それは理にかなっている。

しかし、それは生徒も教員も、このコロナ禍で不安を抱いて生活しているということを、いつも以上に体力も気力も削られて生活していることを、傷つきやすい生身の人間であるということを、度外視して論じているようにしか感じられないのである。

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収まったかと安心すれば、こうやって簡単に揺り戻しである。アラートが出た状態になったとしたら、学校に来い……と、不安も持たずにどうすれば言えるのでしょう?

今やるべきことは取り戻すと言うことですか?本当に?

戻せないことを受け入れて、別の方法を考えることは必要ではないでしょうか?

末端の教員には議論する権利すらないので、分かりませんが…。

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