来週からの授業を色々と考えながら、マリーンズの試合を見て非常に厳しい気分になって週末を終えます…。
課題と時間のバランス
教えているクラスが理系ばかりなので、まとまってじっくりと授業をするだけの時間と授業外の生徒の自主的な取り組みにも期待できない…というか、生徒の生活を考えてもそれは無茶があるので、授業内での完結を考えないといけない。
しかし、今回の単元については、一つ高校での学びの山場となるようなところであるので、軽くさらって終わりにする……というわけにもいかないだろうという見立て。
そのため、さて、毎度のことであるけど、どこが生徒の限界でどこだったらちゃんとやりきれるかという綱引きに頭を悩ませています。
題材が重い
高校の現代文を学ぶということは、「今ある正解の問い直し」という側面がある。生徒たちが自分の生きている世界を無限に問い直していくような、精神的にも重い作業である。わざわざ考えなくて済むことを、自分から掘り下げていき、問題であると対峙しなければいけない作業である。自分からわざわざ自分が置かれている場所が、汚くて醜い生きづらい場所だと一旦考える作業なのだから、面白いというだけでは済まない問題がある。
新聞の書評欄で下の本の書評を見つけたが、内容としてはかなり厳しいことを書いている。そういう厳しい書評に対して正面から向き合って、自分からこういう本を手に取れるようになるには、やっぱり高校の現代文での訓練は重要なのだろうと思う。
常識的な、短絡的な感覚だと見過ごしてしまうことに向き合うのが現代文である。高校3年になると自分のことでいっぱいいっぱいになってしまうからこそ、そして、コロナ禍の今だからこそ、考えるべきことでもある。
重いことを考えるには時間がかかる
問題にはその問題を考えるのに適切な時間というものがある。
現代文の授業は年間の授業のカリキュラムの中で、限られた時間の中で、いろいろな問題を扱っていく。だからこそ、つい「はい、読みました!はい、考えを書きました!問題に取り組みました!」となりやすいのだが、それは問題を根本的に蔑ろにしてしまうのである。
じっくりとゆっくりと考える必要がある。でも、授業の時間は有限である。
何を重視して、何を削ぐのか……その見識が、自分の勉強量にかかっているのだから、責任が重い。中途半端なことはできないなと思う。