授業のことをじっくりと考え直すことが出来る連休。
積んでいた本をパラパラと繰るなどする。
この本は
の改訂版……ではあるのだけど、もはや別物と呼んだ方がいい気もする。
授業はできるが…
子どもたちの前に立って、正確な知識を伝達するという形の授業は、面白く興味深いものにできるかは別としても、しばらく訓練すると比較的すぐに出来るようになる。
集団に対しての情報伝達という意味であれば、ある程度、時間をかけて話し方をトレーニングすると、それなりの形になる。
その意味では「授業ですぐに出来るようになる」のである。
考えてみれば2週間の教育実習で、学生たちがそれなりに一人で授業を回せるようになるのだから、「授業らしきもの」を成立させること自体はそれほどハードルは高くないと言えるだろう。
もちろん、「きちんと子どもたちの力になる授業か」「子どもたちの興味関心を惹くことが出来るか」「知的に刺激的か」など、「よい授業」の観点を追究し始めると、ゴールが見えない果てしない営みになる。
じゃあ、授業を考えるとはどういうことなのだろうか?
授業を学ぶということ
一つは現場で多くの教員研修があるように(私学だとこの点が怪しい学校もあるのだが)、授業研究などを通じて日々の仕事の中で少しずつ「よい授業とは何か」という観点を学んでいくような在り方だろう。
突き詰めていけば、大学院に学びに行くというようなパターンもある。
一方で自助努力で学ぶというパターンも少なくない。地域の教育サークルなどで授業実践を持ち寄り、議論するというようなパターンある。
また、最近ではSNSで情報共有がされ、学ぶというパターンも見えているのだが……個人的にはこの方法については「学ぶ」と呼ぶには軽すぎるという気持ちはある。こういうことをいうと自分が時代の変化について行けないおっさんのような思考になっているのだと言われても仕方ないが、それでも情報量からするとSNSは「学び」と呼ぶにはふさわしくないと思う。
SNSで仲間を作って発展的に授業を考える時間が増えるのであれば、それは学びと言えるだろうが、SNSの限られた情報を得ることで物事を理解した気になるのは、あまり教える立場としては望ましくないだろう。(そもそもSNSの発信については著作権的な問題や先行研究の踏まえ方…という点でやっぱり気になることは多い)
授業の仕組みから考える
話がそれたけど今日紹介している本のようにインストラクショナルデザインについて書かれている本は授業についての考える時に、ハッとするような観点を与えてくれることは多い。
授業を構成する要素を取り出して、一つ一つ原理原則を考えていくという行為は、授業の力量を上げていくためにはどこかで必要な修行だろう。
そして、そういう我慢強く、精緻な仕事をしようとすると、手軽に形だけ真似するということにも慎重になるだろう。
授業の解像度が上がるほどに、授業記録を丁寧に読みたくなるものだ。