予告通り、しっかりと読みました。
ちゃんとした書評を書きたいと思いつつ、先に拭えない不安に襲われたので、その話を書いておこうと思う。
自分にとっては…
この本で述べられている「国語」の教育観や授業観は自分にとっては一から十まで腹落ちするものである。
こういう視点を学んで来たという気持ちがある。
だから、真っ当に国語の授業をやろうと自分が考える時には、こういう考え方を大切にしていきたいと思っている。
もちろん、細かい各論を読んでいけば、自分とは違うと思うこともあるのだけど、そういう些末な違いよりも、もっと根本的なところで絶対的に正しいと思いたいことなのだ。
大切にしていることが伝わるか…
自分にとって、このように非常に大切だと思っていることだからこそ、この本の大切にしている価値のようなものがちゃんと伝わらないで、もっと表面的なことで批判的な言葉が出てくるのではないか?ということをとても不安に思っている。
この本で述べられている一つ一つの考え方や単元のアイデアは、どれもシンプルで子どもの言語生活に寄り添ったものである。
とことん「国語」という観点で、子どもたちの学びの力強さを信じ抜き、そのためにどのように教師があるべきかを説明した本だと感じる。だからこそ、この一冊で、翻作という方法を一つの軸として、様々な教室の、様々な子どもたちの成長を信じた授業づくりのあり方が述べられているように思う。
それゆえに、強い懸念を抱くのである。
最近の教育現場に広く「バズる」(あえてこの言い方をするけど)ものは、もっと分かりやすく、即効性があり、子どもたちが沸き立つものばかりに思う。ICTのツールの話だとか効率よく授業を「回す」方法だとか子どもたちを夢中に「させる」だとか……そういう話が「バズる」のだ。
しかし、この本の語り口はひたすらに静かで穏やかだ。あまりに目まぐるしすぎるあり方に対して芯を通して泰然自若としている。静かに言葉の世界に没頭して、熱を帯びていく教室がその先に見える。
そういうあり方がきちんと伝わるのだろうか……非常に心配である。忙殺される現場からの言葉が怖い。本来は、こういう考えを持って腹を決めて実践していけば、かえって余裕が生まれるというのに……などと思う。
「楽しく」が阻害されるのは何故か
究極的には、なぜ、「楽しく」という学びの一番根幹にあるべきことが蔑ろにされてしまうのか、ということに向き合わざるを得ないと思わされる。
上手く授業が行かないことに、一つ言い訳を見つけ、また別の言い訳を重ね……そうやって自分を誤魔化して仕事をしているのではないかと、猛烈に反省するのだ。