どのような授業が良い授業なのかと考える。
自分の教え子たちの様子を見ていて、これが良いというものを考えると最近になって少しずつまたイメージが変わってきている気もする。
自力でやれるという気持ち
授業が成立するために最低限必要になることは「自分でもやれそうだ」という気持ちを単元のスタートに持てるかどうかだと思っている。
単元の課題を言い渡された時に「自分にはできない」「自分にはやりたくない」と思われてしまったら、それだけで単元を展開することが難しくなる。
もちろん、時にはとても難易度の高いことに挑戦させていくということも必要になるし、今の自分にできることだけに満足させないことも大切なことだ。
しかし、それでもできるだけ「これなら挑戦できそうだ」という勇気が奮い立つような課題の出し方をしたいと思う。
「難しいことをやる」という言葉は多用しすぎると授業研究をしないで済ませる言い訳のくせになりかねないと自戒しておきたい。
「あなたたちはこれが出来るはず」という期待をかけつつ、難しいことに自然と挑戦できる姿勢や気持ちを持てるようになってもらえるように、しぶとく関係を作ることも大切なのだろう。
自然と夢中になるような
本当に課題に対して夢中になっている時には、話し合いの声が聞こえてきつつも、波を打ったような静かさが同時に成立する感じがある。子どもたちが相談する声が静かな教室の邪魔にならないように響く。なんとなく熱を帯びる瞬間がある。
それを授業者の丁寧な働きかけで実現できるのは、その授業者の力量が十分に優れているからに他ならない。多くの場合、いくら働きかけても何となく「やらされ感」が残り続けるものである。
熟達した授業者の授業ほど、そのやらされ感が全く感じられない教室になるものだ。
しかし、さらに達人の域の授業となると、授業者の手渡した課題に対して自然に夢中になる子どもたちの姿がある。
究極的には一人一人に一番あった課題を手渡していくような超人もいるが……そこまででないとしても、選び抜いた単元の学習材を見せるだけで、子どもたちが思わず夢中になる。
そんな授業を時々見ては、心底驚かされる。
学びの時間を自分で決める
本当によい授業になっているとき、生徒はチャイムの音で学びを止めることはない。
自分が必要な学びがあれば、その学びを夢中にやりつづけ、授業が終わっても自分が納得いくまでその課題を手放さない。
時計とチャイムを気にして、終わりを期待しているような状態では……それはもちろん夢中になっているとは言えない。
逆に授業時間内であっても「これが一番良い」という判断を自分でつけられることも大切に思う。授業の終わりの時間にならないからといって、やっているフリ……ということも虚しい。
個別最適なんて言わなくても
やっぱりこの本を読んで考えているわけで
「同時異学習」という観点をこの本では示しているが、「最適」なんて言い方をしなくていいのだなという気持ちがする。
教室の中でそれぞれの子どもたちが「自分のものだ」という気持ちで試行錯誤してくれれば、夢中になるよい授業になるのだろうなという気がしている。