授業で学習課題に真剣に取り組んでほしいというのはどんな教員でも持つ願いだろう。
そして、真剣に取り組むことは実力の向上に直結している。だからこそ、探究的な学びで子どもたちの学びの裁量権を増やすことの大切さはあるし、本気で好きなことに夢中になって学び浸る時間があってほしいと思う。
ただ、教科の授業の中で、生徒が夢中なものを学習課題にするのは注意した方が良いようなあと思う点がいくつかある。
学習目標に合致しているか
生徒が夢中になってやるからといって、安易に好きなことをやらせればよいというものではない。活動として面白いかということと力のつく実践になっているかということは別問題である。力のつく実践は生徒が面白がって夢中になってやるものであるが、面白がっていても力がついているとは限らない。
この辺りの見極めが実は絶妙に難しい。生徒が面白がって取り組むから上手くいっているように見えるかもしれないが、何も手元に残らない……というのでは寂しい。活動あって学びなしはいつでもついて回るのである。
どの題材を使えば、どのように力がつくか。どのような設定をすれば、ねらった力がつくか。そういう見極めにこそ経験値と普段の教員の学びの成果が出る。一朝一夕にはそういう芸当はできない。
そして、身も蓋もないことをいえば、力のある実践者ほど、素っ気ない一枚のプリントであっても、生徒のやる気を見事に引き出す。言葉がけや課題の並べ方、手渡し方というちょっとした差し引きで、巧妙に「生徒はこれを学びたかったのだ」と気付かせる。
その見極めの力が無いと、非常に「夢中になる生徒」という姿は危うい。
好きなものが評価されるということ
根本的に、好きなものを題材にするリスクで一番大きいのは、「その対象が評価されてしまう」ということである。
自分の好きなものだからこそ、良さを分かってもらおうと夢中になって学習課題に取り組む子どもたちは増えるのだろうけど、そのアウトプットにはどうしてもでこぼこがある(でこぼこがあるからこそ授業するのだから)。
そのでこぼこが授業という文脈で、教員から、周囲から評価を拒絶する隙も与えずに常にフィードバックに晒される状態にしてしまうということは、なかなか危うい。
自分の好きなことやものを開陳したときに、それが拒絶されたら、自分の居場所としてその場所を信頼できるだろうか。
本当に好きなものはひけらかすことなく、それぞれの胸の奥にしまっておけばいいのである。授業という強制力で引きずり出したらダメだ。
好きなものと語りたいことの差
国語の授業は言葉の授業である。だからこそ、生徒の語る言葉には敏感でありたい。好きなものだからといって言葉で語れるとは限らないし、語りたいとも限らない。
でも、自分にとって遠いことであっても、ふとしたきっかけでいくらでも語りたいことが生まれてくることがある。
そういう、思わず語りたくなってしまうことを引き出すような、単元を、素材を見出していくことが、自分にとっての国語の授業なのだろうと思う。
出会うべき時に、出会うべくして出会えば、言葉は自然と生まれる。そういう体験を自信にして欲しい。