生徒の活動が活性化しない原因はどこにあるか?
それは「言っても無駄」という学習生無気力にあるというのが自分の半径二メートルの観察の成果である。
正直なところ、生徒に話を聞いてとか、生徒にやらせてとか言っている時点で、その言葉遣いに「生徒の話は形式的に聞くだけ」という姿勢がにじみ出るのであって、それがバレないと思うのは非常に浅薄である。生徒を侮っている。そして、その侮りはきちんと伝わるのだ。だから、生徒は動かない。
無意識になっていないか
生徒の話を「形だけ聞く」というやり方は、学校の至る所に転がっている。だから「言ってもも無駄」ということが学習される。
そして厄介なことに、教員の立場からすると、こういう雑な対応でも生徒に話を振っているならば、「生徒に自分はちゃんと話を聞いている」という意識を強固なものにしていくのである。
「これだけ生徒のことを理解して仕事をやっているのに」という視点になっていくから、だから、余計に話を聞かなくなる。
残念ながら、それは悪意ではない。あくまで善意から、教員としての良心からやっているのかもしれないが、それが頑迷で息苦しいパターナリズムになっていることも少なくない。悪意がないからこそ、いっそう、頑固になっていくのだ。
話を聞かないという姿勢が、無意識に固着していないか?
そういう無自覚の教員から生徒への圧力を、自戒を込めて批判的に考えておきたい。決して権力勾配は対等ではないのだから、必要以上に線引きをしなければいけない。
任せるは放任ではない
じゃあ話を聞くとは丸投げにして、勝手にさせることなのか?
それも勿論、違う。そこの違いを分からないで生徒任せにして仕事が進まないで沈没させるのもかなりたちが悪い。生徒の無力感が増長されるのである。
きちんと任せるなら地ならしをするのは大人の仕事である。制度の手本や話すべき筋の提示など、考えるための条件をきちんと包み隠さずに広げるべきである。自治をさせたいならば、自治できるだけの情報と仕組みを手渡すべきなのだ。
任せる以上は、つまらない失敗をさせてはいけない。大人の都合や仕組みの瑕疵で失敗するようなことをさせてはいけない。どうせ失敗するならば、学びのある失敗であるように、何も学べないような失敗はさせてはいけない。
きちんと任せる、自治を委ねる。
そのためには、もっとちゃんと教員が学校全体を見渡す余裕と、教育観を共有する機会が必要である。