教員の授業準備として、授業の予習という言い方がある。
しかし、自分は振り返ってみるとあまり「予習」とはあまり言わない。原則、授業は作るものだと思っている。
他の人のものをそのままは…
準備されている問題を解いて解説を準備しようとするときに「予習」という言葉が出てくる。自分の用意したものではなく、誰かの用意したものをあれこれとやるときに「予習」という感覚がある。
だから、入試演習などを授業でやるために準備している時には「予習」という感覚で授業準備をしている気がする。
だからレギュラーの普通の授業では、自分が素材を基本的には準備して単元を組み立てているので「予習」というよりは「作る」という感覚の方である。
「予習」だけで授業を立てられるのであれば、数時間でだいたい目処がつく。しかし「作る」となると無限に時間が溶けていくのである。
「作る」ことの楽しみと苦しみ
授業を「作る」ことは教える仕事の楽しみであるが、ゼロから考えていくことは非常に苦しい。
だいたい、何を教えたら良いのか、どこに目を向ければよいのか、そういう根本的なところからアイデアが出てこないのである。何をやるべきかが定まった後でも、次には何を素材にするかということに苦しむ。
このブログでも何度も苦しんでいる様子を見せているとおりである。
ただ、それでもやっぱり授業は「作る」ものでありたいのだよなぁ…