ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

虚心坦懐にみる

どの単元、どの授業でも必ず生徒の意外な面を発見する。

高校の授業は週2回くらいしか生徒に会わない。一年、二年と授業をやっていると、なんだかよく分かった気持ちになっているけど、やっぱりそんなことはないと目から鱗が落ちるのである。厄介なことに何度目から鱗が落ちても鱗はしつこく生えてくる。

成果をみないと分からない

座って話を聞かせて、テストを受けさせているだけでは、その生徒がどのような生徒だということは究極的には分からない。

個人的にはかなりいいところまでプロファイルできるような気もするが、それでも授業でのちょっとした反応やテストの答案からだけでは漏れていることが多い。

そういうことに気付くのは単元や授業の中で生徒に実際に言語活動をやってもらわないと、本当にどういう力を持っているかなんて分からないと思うのである。実際にしぶとく自分の考えていることを表出してもらったときに、やっとその生徒の腹の底が少しのぞけるような気がするのである。

 

 

これだけ毎日授業をしているのに、実際に生徒の姿を見て自分がどれだけ先入観にとらわれているかということに気付かされることばかりである。生徒の意外性にいつも驚いている。

そして、そういう驚きは常に授業計画の修正につながっている。自分の見取りの甘さは単元の練度を大きく変えてしまう。何度やってもなかなか見落としてくることが出てくる。

イレギュラーは怖いかものか

生徒が自分の想定と違う姿を見たときに、どのように感じるかはかなり個人差や文脈依存的なところがあるように思う。

授業をつつがなく、思い通りに進めたいと思うのであれば、想定外なんて少しでも少ない方が有り難い。どれだけしっかりとクラスをコントロールできているかという観点から研究授業を見るならば、例外や想定外がない方が美しく見えるのかもしれない。

授業巧者の美しい授業。

まあ、それも一つの授業完成形でしょう。そういう形を目指すならば、想定外やイレギュラーは怖いし、寝た子を起こすな方式で触れたくなくなりますね。

ただ、自分が授業をコントロールすることを「諦め」て、生徒の持っているものをできるだけ見ていこうとするならば、色々なことが起こるだろうと思う。授業という仕組みを活かして「教える」ということにこだわりつつも、想定外や意外性を受け止めるだけの授業はできるだろうか?

授業者の視野や思考の広がりがあるときに、何とか少しできるかもしれない。

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