授業の単元を考えるときに、生徒が有能であるという期待感と生徒はまだまだ出来ないだろうなぁ…という矛盾した見立ての間を揺れ動く。
期待をするということ
生徒の実態をちゃんと見取って適切なレベルで単元を立てるのが本来の授業づくりではあるが、単元を展開していくといつでも生徒は授業者の予想を超えて結果を出してくれる。
毎回、苦しい思いをしながらも出来るだけ授業を作り込むのは生徒が期待以上の成果を出してくれることが喜びだからである。
それは授業者の立場としての単元構想は、「単元でどのような力を身につけるべきか」ということを焦点化して考えているが、授業を受ける側の生徒は自分の持てる力のすべてを使ってよい結果を作りたいと考えるので、成果の様々な面で良さが光るからだろう*1。
自分が予想しなかった成果を生徒が残してくれた時には、やはり色々な苦労が吹き飛ぶようなカタルシスがある。こういう成長を実感することを楽しみに授業をやっているといっても過言でないかもしれない。
生徒はびっくりするくらい出来ない
一方で生徒は簡単なことも出来ない、何も知らない、出来ないことだらけということに驚くこともある。
生徒が出来ないことがあるということを冷静に見立てているからこそ、単元を考えることができるとはいえ、見立てよりも全然できないということもままあるのだ。
とはいえ、出来ないことをできるようになるための生徒の精一杯の背伸びを促していくことが単元を作る魅力である。
当然ながら生徒が出来ないことに挑戦してもらうことになるので、アラは目立つし稚拙さが目についてしまう。
こういう生徒の出来なさを見ると、やっぱり空気は重くなるし、それに付き合うのはなかなか精神的に重い。
こういう状況になると、つい生徒の不出来を口にしたくなる人は少なからずいるのだが、出来ないことをあげつらうことは、生徒の挑戦する気持ちを削ぐことになる。口に出さなくても態度には出る。だから、やはり生徒の出来ないことをネガティブに考える習慣からは脱しておきたいと常々思う。
出来ないことが出来るようになるイメージを持つことが出来るのが、授業者に求められる能力だろう。出来ることを期待しないのに、授業なんてできないのだ。
我慢強く揺れ動く
こうした2つの極を揺れ動く振り子として、授業をどうしたらよいかを考えていくことになる。
期待以上の成果が出ることを喜びつつも、日常は出来ないことに悪戦苦闘していくことにしぶとく付き合うのが授業である。
期待以上の成果が出ることは嬉しいが、苦手なことから逃げ出さないこと、向き合うことをちゃんとデザインできるようになることのほうが授業の大きな課題なのである。
生徒の期待以上の成果が出ることは魅惑的である。しかし、そういう派手な成果を求めて活動にばかり気を向けてしまうと、授業の見立てを誤る。
また、実際は、単元を展開していく中でも生徒の実態によって柔軟に単元の構成を臨機応変に調節していくことにもなる。色々な変化を柔軟に受け入れられるようになるのは、自分が授業というものに慣れてきてからなのだろう。授業者の予定や都合ではなく、生徒の実態に寄り添いつつも、単元の目的を実現できるような授業……そういう勘所はいつになれば身につくのだろう?
そんなことをぼんやりと考えるきっかけとなったので、紹介しておきます。
*1:逆に言えばいくら器用に成果が出ていても、ちゃんと狙った成果が出るかどうかは見極めないといけない。生徒の期待以上の成果は嬉しいものの、自分の授業の狙いがブレないようにすることも必要である。活動あって学びなしにならないためにも、成長や成果を喜びながらも目先に自分の授業や見立てがブレないことも必要だ。