今月の『教育科学国語教育』は発問と言葉かけ特集。
が、このメインの特集についてはとりあえず、また今度どこかで話すとして、自分が今回紹介したいのは、連載の記事。
お茶の水女子大学附属中学校の渡辺光輝先生の生成AIに関する連載の第3回目の指摘が非常に面白いです。
生成AIと文学的文章の相性
今回の記事で渡辺先生はご自身の実践を通じた実感として、生成AIと文学的文章を読むことの関係について提案をされている。
商業誌なので詳細な内容を紹介することは避けるけど、内容としては生成AIと人間の解釈の際からの学びの重要性が述べられている。
ここでの提案を踏まえると、生成AIの仕組みと、人間の解釈の仕方の差を自覚的に授業に取り入れるからこそ、深い学びが実現しうるということを期待したくなる。そして、それが評論よりもある意味で文学的文章だからこそ、色濃く出るということにも非常に納得するところである。
なお、連載記事で紹介されている実践の詳細な内容は、全国大学国語教育学会で渡辺先生が発表されているので、以下の予稿集を読むともう少し詳しく分かります。
文学的文章の授業が何だか指導者の主観の押しつけみたいなイメージで語られることが多い状況に対しても、こういう授業で考える経験をするならば、そういうイメージにはならないだろうなあという気もします。
文学的文章だからこそ、という点を考えると、高校の授業についてやはり考えざるを得ない。
高校の文学的文章…
今回の学習指導要領の改訂で、文学的文章の取り扱いについてはかなり色々と批判が起こってきた*1。
特に論理国語と文学国語を分けたことについては、かなりの批判が起こっている。そして、論理国語を選択するとなると、なかなか文学的文章を扱うことは難しい。
実際の現場の運用においては、先生方の色々な努力によって、生徒が文学を軽視するようなことにならないような工夫はされているとは感じている*2。
さて、話がずれたが今回の本題である。
渡辺先生のご提案のように、生成AIの活用として文学的文章を取り扱っていくということは高校でも十分に可能性があるだろうと感じる。もちろん、テクノロジーの結晶である生成AIの活用として、このような感性に関わることのような利用は非生産的という意見も出てきそうな気はするが、そのような意見を言われるならば、もはや国語という科目が存在する意味も無いだろうと思う。
言葉を学ぶという観点から、生成AIを国語の文学的文章で活用していくということは高校でもきっと意味があるような予感はある。
ただ、高校のカリキュラムにおいては、文学的文章の比重がかなり小さくなりつつある。文学国語を設置しない学校も少なくない。
一応、必修科目として文学的文章を触れる時間もあるが、時間的にたっぷりと考えるという時間を取るのは難しそうであるのもよく分かる。
せっかく文学的文章と生成AIというテーマに何か鉱脈が埋まっていそうな予感があるのに、それを掘り起こすための授業の枠がなかなか取れなそうなのは難しいところだ。
ただ、こういう発想での文学国語の使い方って、高校の一般的な意見だと、きっと嫌われるのだろうなぁという気もしている。割と食わず嫌いで。やってみたら風向きも変わりそうな気もしますが。
逆に、自分たちの小説の読みと生成AIの読みを比較する論文を書くという単元を論理国語でやってみるという絡め手の可能性もあるのかも(笑)。十分に授業で文学作品を生徒が読みつつも、やっていることは正々堂々と論理国語みたいな。
これもまた怒られそうな話だなぁ。