日経新聞にこのような記事があった。
日本の学校のことかと思ったら、なんとハイ・テック・ハイのことだった。アメリカのチャータースクールのことが、教育専門紙ならともかくとして一般紙にこうして報じられるような時代になったのか…という隔世の感がある。
学校のイメージが少しずつ変わる
日経新聞のような大きな新聞で、これだけ紙面を割いてHTHのことが紹介されているのには、自分としても驚きがある。
もちろん、公立の学校と書かれているけど厳密にはチャータースクールだから日本の一般的な「公立」とは意味が違うんだよなぁとか、評価の方法についての言及がないから大学進学みたいなことが評価の指標になっている書き方はよくないよなぁとか、そういう細かい気になることはあるものの、それでも全然、これまでと学び方が変化しているのだということが描かれているのは、スゴい大きいことだと思う。
なお、HTHの様子などについてもう少し踏み込んで、それでいて分かりやすく知りたい場合は、藤原さとさんの本が参考になる。
個人的にはHTHも好きだけど、ミネソタ・ニューカトリースクールのPBLもよいので知られて欲しいところ。
こうして、今までの固定観念とは違う「学校」の形が少しずつ広まっていけば、学校のあり方も変わってくるのだろうと思う。イメージできるものであれば、それほ欲するようになる人も増えてくるだろう。そういう地道な変化が重要なのだ。
遊んでいるだけという人もいるけど
こういう何かものづくりをすることばかりに時間を割いていることを捉まえて、遊んでいて勉強していない、学力がつかないということをいう教員が後を絶たない。そのものづくりがゲームのような、ICT端末上のプログラムになると反応は余計に過激になる。
もちろん、こういう先進的な取り組みをしてきた学校であっても上手くいかないで調整している例は多くある。例えば、多くの学校で数学についてはプロジェクトとは別に学ぶ時間を作っている。どうしても体系的に教える必要があるものもある。
しかし、子どもの成長ということに目を向けていくと、もう少し自由度高く生徒に時間を渡しても、身につけられる力の総量は上手くいく部分は大いにあるのではないかと思っている。
これは年齢的には幼い子どもの話だけど、ほぼ大人の高校生だって通じる部分はあるんじゃないかと思う。
こうしなければ、ああしなければ、という当為についての思いこみはどこから生まれてきて、なぜ、これほどに捨てられないのだろうか