ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

苫野一徳先生の講演会を聞きに行ってきました

今日は全国各地で様々な教育系のイベントが開かれていますが、自分はもともと休みではないつもりだったのでスルーしていたのですが、急遽、休みになりまして。

どうしようかと思案していたら、こんなイベントが……。

www1.ex-waseda.jp

ちょうど、増席もあったタイミングで申し込めたのでぶらっと早稲田大学*1まで行ってきました。

母校での講演ということもあり、苫野先生いわく「いつもよりいい話をしたい」という意気込みだったそうです。実際、終了時間を少し延長してまで力のこもった講演でした。

少しだけその内容を紹介します。

哲学の力が伝わってくる

紹介しますといったものの、本日の講演は少々、まとめて紹介しにくい。

自分自身が精神的に骨休めといっては失礼だけど、元気が出る話を聞きたいなぁくらいの気分で参加しているので、今回はあまりメモなども丁寧に取っていない。

また、講演自体も、字面でこうして今、見直しているとあまり講演の熱量を伝えようがないなぁという感じなので、今回はもう骨組みだけ紹介することにします。

1.哲学とは何か?

よく苫野先生がご著書やSNSで言われていることですが、哲学は「意味のないこと」だと思われがちだが、「こう考えれば問題を解き明かすことが出来る」ものであり、「本質」を捉えることで、「原理」を提示できる*2ものであるということの再確認から本日は始まりました。

この辺りの話は何度聞いても大切だなぁと思う。後半の話にも関わりますが、結局、自分の普段の思考パターンや行動パターンでは、信念対立を引き起こすようなことをしがちである。だから、こうして「哲学」の思考の道筋の話を聞くことで、自分の普段の生活の行動に「ちょっと待てよ」という手札を増やすことに繋がる。

個人的には精神的なデトックスに来ているので、こういう形で「考え方」を見直す話を聞けただけでも割と価値があるのです。

2.子どもの頃から哲学者?

苫野先生は現在、実際の現場で思春期の子どもたちと哲学対話に取り組むことが多くなっており、そして、その楽しさをかなり感じているということでした。

そこからご自身の子どもの頃から哲学者になるまでの話が始まるのですが……この辺はいくら自分が書いても面白くないので、もう苫野先生のご著書をお読みください。

子どもの頃から哲学者 ~世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!

子どもの頃から哲学者 ~世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!

 

いわく「見えてしまった」ことがとても大きな事件だったそうで……そして、その「見えてしまった」ことと「哲学」が対決していき、「哲学」が勝っていく過程……うーん、まさに何かを考えるということのエネルギーなのだなと感じました。

3.欲望相関性の原理

苫野先生の若かりし頃の強烈な「人類愛」の考え方と「哲学」の対決の話が本日のメインディッシュ。対決と呼んでいいのかは分からないけど、聞いている立場からするとまさに対決、闘争である。

今回のお話では、苫野先生のご著書ではすっかりおなじみの「欲望相関性の原理」がいかにして苫野先生の「人類愛」を退けていくかという話でした。

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

 

竹田青嗣氏(のご著書)との対決?の話なども面白かったです。

強烈に自分によって得た確信に対して、理性的に積み重ねられてきた哲学が矛盾し合うとき、一体、どんな葛藤が起こるのか。その結果、苫野先生の場合は、理性が勝り、哲学者への道が開けたわけだけど、さあ、自分の場合はどうだろう。丁寧な自己吟味と自己了解にたどり着けるものなのだろうか。

4.子どものための哲学へ…

さて、時間が押してきた結果、講演のタイトルの部分は駆け足になりました(笑)が、こうやって丁寧に哲学の考え方や積み重ねてきたことを、教育に活かせるだろうというのが本日のまとめです。

子どもに対しては、「本質看取」の経験や異なる他者ときちんと原理や本質に降りて行って共通了解を探り、そうしてわかったことをきちんと言葉にするという経験がどれだけ大切なのかということを説明していました。また、大人に、教員にとっての哲学の意味としては、やはり教員同士で教育に対して対話を積み重ね、共通了解を作る方法になるということを説明されていました。

いずれにしても、何でもかんでも相対的だ、それぞれにそれぞれの意味があるというような態度は退けています。というのも、そういうようななんでもかんでも相対化することは「対話への意欲を失わせる」からだと。逆に共通了解を探り出す作業は、「対話」の意義を実感するための経験として重要であると。本日の講演の中で特に印象に残った話題でした。

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

 

「本質看取」の難しさを述べられていながらも、「哲学」の力を活かしていくことへの期待を述べられた講演会でした。

元気がもらえる話でした

あまりとりとめのない紹介の仕方になってしまって申し訳ないです。自分自身があまり神経質に、というか気を張って学ぼうという気持ちがなかったからだろうと思います。

初めにも述べたように、今日はどちらかと言えば自分の精神的な骨休めの意味合いが強い。本気で勉強する気ならば自分が行くべき場所は日本国語教育学会の研究会の方である。

いや…決して苫野先生の講演会を舐めてかかっているのではないですよ!

自分の期待として、元気が出るような話を聞きたかったという気分だったのです。

どうしても最近は「あれもできない、これもできない、それはダメ」というような話ばかり聞いていたり、子どもを教えるということをめぐって嫌なことを聞いたりしていたので……。

だから、少なくとも「こうできるかもしれない」「こういうこともいいよね」という話を聞くことがとても意味があったのです。

だから、今日の話はもちろん知っている話も多かったですが、相対化を乗り越えていくことへのパワーを感じられたので非常によかったです。

過去の苫野先生講演の記事

www.s-locarno.com

www.s-locarno.com

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*1:実は本日は早稲田大学では日本国語教育学会の大学部会がやっていたり…

*2:「本質」も「原理」も絶対ではないことに注意。

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