ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

中教審の答申を読むなど…

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先日、このようなものが出てきた。

www.mext.go.jp

じっくりと読んでいる時間が取れないので、気になるところをざっくりと読んで感想を書いておこう。

学校の外側から始まる

ずいぶんと、見慣れた光景になりつつあるが、学校教育のことを語るときに、学校教育の外側の話がだいぶ分厚い。

今の教育を語るときに、もはや言わないではいられないのか、society5.0やらAIやら。

人工知能(AI),ビッグデータ,Internet of Things(IoT),ロボティクス等の先端 技術が高度化してあらゆる産業や社会生活に取り入れられた Society5.0 時代が到来し つつあり,社会の在り方そのものがこれまでとは「非連続」と言えるほど劇的に変わる 状況が生じつつある。

(「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)」P.3より。2021年1月27日19:30確認)

確かにその通りであるし、他国の動向などを見聞するとのんびりとしたことを言えない状況にあることも分かる。そして、そのことに対する学校の内側の温度の低さもよく分かる。

とはいえ、この辺りの話はもう新学習指導要領である程度の形が見えているのだから、もうしつこく繰り返さなくてもいいんじゃないかなという気持ちもある。外側からの要請に応えたのだから、次は内側からの言葉や動機付けで語れないものか。まあ、難しいのも分かるので、現場で語る人間の課題だろう。

歯切れは悪い印象

コロナ休校の影響なども反映されている印象の内容になっている。それだけに、ICTを始め、今の学校の形からかなりドラスティックに変えることを求めるような内容になっている印象がある。そして、そのこととバランスを取るように、「これまでの日本型教育」なるものへの強力な執着も感じる。

現在の学校現場は以下に挙げるような様々な課題に直面している。日本型学校教育 が,世界に誇るべき成果を挙げてくることができたのは,子供たちの学びに対する意 欲や関心,学習習慣等によるものだけでなく,子供のためであればと頑張る教師の献身的な努力によるものである。教育は人なりと言われるように,我が国の将来を担う 子供たちの教育は教師にかかっている。

(「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)」P.9より。2021年1月27日19:30確認)

なんだか読んでいるのが恥ずかしくなるような肩に力の入った感じがある。

また、対面授業とオンライン授業についても、今年はコロナ休校の影響があるので言及せざる得なかったのだろう。ちゃんと書かれているのだが、その書きぶりが「ハイブリッド化」という文言である。

GIGA スクール構想により児童生徒1人1台端末環 境と高速大容量の通信ネットワーク環境が実現されることを最大限生かし,端末を日常 的に活用するとともに,教師が対面指導と家庭や地域社会と連携した遠隔・オンライン 教育とを使いこなす

(「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)」P.27より。2021年1月27日19:30確認)

「教師が使いこなす」ねぇ……。ICTについては「文房具」という言葉も見えているのだけど、結局、「教師が」という主語、文脈においたイメージなのでしょうなぁ。

ICTで気になること

GIGAスクールの関係もあって、各所にICTの話題が出てくる。

一例としては、「概要」の方が分かりやすいかな。

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(「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)【概要】より。2021年1月27日19:30確認)

うーん…個人的には「これまでの実践」との「組み合わせ」云々で対処すれば良いと言うように見えるこの部分はあまり納得できない。

その理由は以下の記事で書いてきているように、SAMRモデルで考えると、「これまでの実践」に木に竹を接ぐようにICTを組み合わせることは、あまりにICTの可能性を限定しているように感じるからである。

www.s-locarno.com

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これまでの実践の否定ではない。

これまでの実践を通じて、子どもを見取る、子どもの学びの過程を深く理解する、そういう教員が、学びの道具としてICTを子どもに手渡すことで、新しくこれまでとは質的にも量的にも異なるものを模索していくべきなのではないか。

この本の中に出てくるような実践は、これまでのことを踏まえつつも、全然、質や量の異なる実践が多いのである。

この辺りは、もっと現場に端末が降りてきて、創意工夫が行われていくうちに、現場が踏ん張ってよいものを提案していくんじゃないかという期待もある。日本の教育の強みは、研究文化だという信頼はある。ま…最近は研究授業だとかもかなり悪者として槍玉に挙がっていますけどね。よい、研修の模索は必要でしょう。

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なお、かなり気になるのは以下の点。

学習履歴(スタディ・ログ)をはじめとした様々な教育データを蓄積・分析・利活用することにより,児童生徒自身の振り返りにつながる学習成果の可視化がなされ るほか,教師に対しては個々の児童生徒の学習状況が情報集約されて提供され,これらのデータをもとにしたきめ細かい指導や学習評価が可能となる。

(「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)」P.77より。2021年1月27日19:30確認)

これも色々なところで繰り返されていることではあるのだけど、ここまではっきりと書かれるとなかなかためらいがある。

「学習履歴」のデータはどうやって収集して、どこに蓄積して、誰が管理して、誰が分析するのか。

某社などは、今でもある大学の合格率と、生徒の学習時間の相関などを資料に使っていたりするけど、それって個人が全く特定できないのは当然としても、本当に問題の無いことなのだろうか?また、データが残り続けるって嫌な面もあるわけで…。

最大の問題は

色々と思うところがあるのだが、最大の問題は以下の画像を見て分かるのではないか。

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(「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)【概要】より。2021年1月27日19:30確認)

内容うんぬんよりも、上の画像を見て分かるとおり、「文字が多すぎる」つまり「求めることがあまりに多すぎる」のである。ニンニクヤサイアブラカラメチョモランママシマシみたいな呪文が聞こえてきそうなモリモリである。

こうして、何でもかんでも盛り込むから、身動きが取れなくなるんですよね、と思う。そこに「仕事の魅力化しろ」なんて求められても、冗談かと思いますよ。

オマケ

 
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