こうやってダラダラと毎日文章を書くことを自分の修行として課しているけど、文章を書くことは、普通の人にとってはハードルの高い行為なのだ。
まったく依頼している文章が出てこないでイライラしている最近ではあるけど、文章を書くことは大変なのだ。
書き慣れていても書くのは大変
曲がりなりにも国語科の教員をやっている自分であっても、いざ人に読んでもらうような文章を書けと言われると、四苦八苦して書くことになる。
ブログのように気楽にやっているものであっても、ネタが無いときは本当に書きたくねぇなと思うし、書くことに責任を伴うような文章であれば、なおさら筆が進まないでギリギリまでチキンレースしてしまいがちである。
本当に書くのは心理的に負担が重い。
好きなことを書くとしても、それが読まれて責任を負うということになれば、非常に苦しいところなのだ。
だいたいの大人にまとまった文章を依頼しても、原稿が出てくることは非常にギリギリである。文章を書いていることになれていないのであれば、大人にとっても書くことは非常に負荷が重いのだ。
簡単に書けと言わないで
多くの大人は文章は上手く書けないし、書いてくる速度も非常に遅い。書くことにはトレーニングが必要なのだ。
ただ、そうやって自分たちの書くということが割とズルズルとグダグダとしているのに、子どもたちに対して正しい文章を正しく書けと、やたらと言いたがる人が常に一定数いるような印象を持っている。
生徒の書いてきたものを見て、この上なくけなす人は多いが、書くことは簡単にはできるようにならないのである。文章を人に見せてまで批正を受けようとしている相手に対して、罵詈雑言をぶつけても成長のためにはいっさい得はないのである。
国語の授業ではそういう生徒の「書けなさ」と粘り強く向き合うものである。粘り強く書くことの楽しさを感じさせながら、自分の文章を仕上げることに伴走していくことが国語の授業である。完成したものを赤ペン入れるのが仕事ではない。
そういう「書けなさ」と付き合いながら、授業で書くための準備をしているときに、大人が口を出して台無しにしてしまうこともあるのだ。せっかく頑張っていたのに、それに対して容赦なく切り刻まれたら……まあ、やる気はでないだろうな。頼むから、授業で書くことを粘っているときには、なんの利益もないダメ出しは止めて欲しいなぁと思うのである。