
三連休の最終日に積ん読にしてあったこの本を読みました。
苫野先生のVoicyでも何度も紹介されていたので、楽しみにしていたのですがゆっくりと読みたいなぁと思って積ん読になっていました。やっと三連休の最終日に手に取ることが出来ました。
直感したとおり、休日の時間があるときにゆったりとした気持ちで読みたい本だと読み終わった今でも感じます。
誰にでも開かれた本質観取
本書は苫野先生の他のいくつかの書籍やVoicyでも紹介されている「本質観取」の方法を非常に洗練させて、シンプルな形で提案してくれています。まさにタイトルの通りに「親子で」取り組めるような、誰にでもできる方法として磨き込まれていると感じます。
もちろん、もう少し踏み込んでやってみたいというのであれば、例えば苫野先生の以下の本が参考になるでしょう。
授業などを通して子どもたちに身につけて欲しい力を具体的にイメージしたいというのであれば、こちらを読み込んで実践してみる方が良いでしょう。
ただ、もっと手軽に、誰にとっても気軽に取り組みやすいモデルとして参考にするならば、本書の見開き1ページで紹介されている「手順」が非常にシンプルで分かりやすいです。
おそらく、この1ページを読み合わせるだけで、初めて会う人同士でも哲学対話に挑戦できるだろうと感じますし、誰にとっても真似して挑戦しやすいモデルだろうと感じます。
この「誰にとっても」という点は本書の価値として非常に重要だと思う。
本書では本質観取の価値について以下のように説明している箇所がある。
民主主義社会とは、多様で異質な人たちが「対話を通した合意」に基づいてつくりあう社会です。
(中略)
わたしたちは、この民主主義社会をいっそう成熟させていくことができるにちがいない。世界の平和にだって、寄与できるかもしれない。(『10分からはじめる「本質を考える」レッスン 親子で哲学対話』P.50より)
民主主義社会の仕組みを考えた時に、本書で提案する本質観取の方法のように、「誰にでも参加可能性が開かれていること」は非常に重要なのだ。
民主主義社会において対話の重要性は疑うべくもないし、対話できるだけの力を国語科教育を教える立場の自分としてはどうにか育てたいと思うが、対話というものは非常に困難なことである。
色々な要因が絡まって対話が困難になることはいくらでもある。本人の置かれている状況、例えばコミュニティにおいてマイノリティとして追い詰められているとか自身の生活や体調に余裕がないとかいくらでも対話に向かえなくなる原因は想定しうる。
一つ一つの問題について万能の解決策を考えることは難しいが、日常生活の場に対話という経験がもっと増えていくことが必要になるだろうと思う。そのような観点から見ると、本書のように子どもの頃から、誰にとっても気軽な対話と本質観取の方法が提案されていることには、現代社会にとって重要な意味があるだろうと思う。
親子の対話から活力を得る
また、本書のメインの部分である苫野先生とご息女たちとの対話の部分は非常に平易に書かれているので、読んでいてまったく心理的な負担がない。
一つ一つのテーマについて、自分ならばどう考えるのだろうという本質観取の参加者として考えながら読んでみることも楽しい。
ただ、本書を読んでいて感じることはそういう楽しさばかりだけではない気がする。
一つ一つの対話の様子を微笑ましく読みながら、また、子どもの直感の鋭さに感心して読みながら感じていることは他にもある。
それは対話の過程を丁寧に読んでいると、非常に心が穏やかな気持ちになるのである。ある意味で瞑想のようなそういう感覚である。いや、そりゃあ親子の対話を読んでいて激昂したり号泣したりはしないので、一般的な読書の結果としてもリラックス効果はあるよ!
ただ、それ以上に「対話」をなぞるということに、何だか精神的にスローダウンできるような感覚がある。
ケアとしての対話というそういうことを感じる。ああ、ちゃんと一つ一つの言葉が丁寧に通じているぞという感覚がある。もしかすると日常生活はそういう落ち着きとはかなり縁遠いところにあるのかもしれない。
一つ一つの言葉の意味を卓球の球を打ち返すように瞬発力で打ち返さなければいけないような生活をしているのかもしれない。
だからこそ、しっかりと一つ一つの発話を受け止めて、しっかりと言葉を眺めて、そして応答するという対話のあり方に癒やしを感じるのかもしれない。
休日にじっくりと読もう
本書はざっと流し読みをするなら30分くらいで読めてしまう本です。
しかし、ざっと読むだけではなく、色々な慌ただしさから切り離されて、じっくりと時間が流れていくのを感じながら読むのによい本だと思います。






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