明日からリーディング・ワークショップを通常授業と並行してやっていくために、この休みは読書の技に関する本を読んでました。
話題になっていたけど読むのが遅れていた。やっと手に取って読みだすことができたところ、リーディング・ワークショップに向けても面白いなぁと思うことがいくつかあったので、少し紹介しながら書いてみる。
なお、本のタイトルは『読んでいない本について堂々と語る方法』となっていますが、今回の書評はちゃんと本を読んで書いています(笑)
そもそもちゃんと「読んだ」とは何かから始める
タイトルが挑戦的ではあるが、内容としてはいたって真面目*1である。
例えば、この本の各章のタイトルを挙げてみると
Ⅰ 未読の段階
1 ぜんぜん読んだことのない本
2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
3 人から聞いたことがある本
4 読んだことはあるが忘れてしまった本
Ⅱ どんな状況でコメントするか
1 大勢の前で
2 教師の面前で
3 作家を前にして
4 愛する人の前で
Ⅲ 心がまえ
1 気後れしない
2 自分の考えを押しつける
3 本をでっちあげる
4 自分自身について語る
といった内容である。ハウツー本を期待している読者にとっては前段が長く見えるだろう(笑)
結果的にはかなり優秀なハウツーを教えてくれているのだけど、そのための前提条件として本を読むということや本を語る様々な状況を、様々な先人たちの豊富な文学作品を引用しながら論じている*2。
本書の著者の意図するところがよくわかる箇所を引用すると以下の点だろう。
読んでいない本について語ることが正真正銘の創造活動であり、そこでは他の諸芸術の場合と同じレベルの対応が要求されるということは明らかである。そのことを納得するためには、そこで動員されるさまざまな能力、つまり作品に潜在する諸々の可能性に耳を傾けたり、作品が置かれる新たなコンテクストを分析したり、他人とその反応に注意を払ったり、さらには人の心をとらえる物語を語ったりする能力のすべてに思いを馳せれば十分だろう。(P.270 強調下線は引用者による)
すなわち、「読んでいない」本でも我々が「語りうる」のは本を取り巻く様々な要素に対して我々が本質的に興味を抱いているからであって、実は「正しく読む」ということが非常に曖昧な概念であることを鋭く指摘しているのである。
こんな話をすると「国語の読解は……?」となるのだが、本書でも学校の話は書かれている(笑)
学校空間というのは、そこに住む生徒たちが課題とされた書物をちゃんと読んでいるかどうかを知ることが何よりも大事とされる空間である。そこには完全な読書というものが存在するという幻想が働いている。あいまさを一掃し、生徒たちが真実を述べているかどうかを確認しようとするというその狙いも錯覚を孕んでいる。読書というものは真偽のロジックには従わないものだからである。(P.199 強調下線は引用者による)
なかなかこれだけでも手厳しいがさらに結論のところでも
学生たちは学校で本の読みかたや本について語る方法は教わっているが、読んでいない本について語る方法を教えることは学校のプログラムには奇妙にも欠けている。ある本について語るためにはそれを読んでいなければならないという公準が疑問に付されたことは一度もないようである。(中略)あまりに多くの学生が、書物に払うべきとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁止 によって身動きをとれなくされなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、(中略)想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自ら禁じている。(P.272 強調下線は引用者による)
と「正統」に文章を読むことを疑わない「教室」の空間の在り方を批判的に述べている。
このような批判の在り方は、例えばあすこま先生が以下の記事で書いているような学校における精読主義に対する疑義と似ているように感じる。
上の記事では話題としては別のことを述べているけど、結局、精読の背景にあるのは「正しく読むべき」という心性であるし、もっと踏み込めば「子どもは自力では正しく読めないから正しく読める大人が教えるべき」という心性であろう。だからこそ、「正しく読める」とは何かということを根底からひっくり返しにかかっている本書はかなり刺激的なのだ(笑)
「正しく」読むことを疑うと
もし、「正しく読む」ということを気楽に捉えていくと、読書の関わり方も随分変わるのではないかなぁと思う。例えば、分かりやすく例を挙げれば、リーディング・ワークショップ。
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自分が読むべき本は自分で決めるということが重視されることが『読んだことがない~』の中の「本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である」(P.27)という指摘と合わせて考えても重要だろう。
なぜなら「何かを一斉に読んで正しく読める」という前提が覆るのであれば「自分にとって正しい本」を決めるのは「読者自身」ということを認めるべきではないだろうか。一斉に読ませることでそれだけ自分自身で選んだ本を読ませていないということになっていることの事実は忘れるべきではないだろうなぁと思う。
さらにいうと、読みかたも精読一辺倒ではなく流し読みなどについても取り上げていける可能性はあるんじゃないかと感じる。例えば、この本を読んでいて連想したのが
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で、どんどん流し読みしていくべき本は流し読みして読んでいき、「すべてを読まなければいけないという強迫観念」から解放され、必要な記録を取ることで精読ではなくて本全体の在り方を捉えることを述べているが、そういう観点も必要だろう。
本について語ることについて
『読んでいない本について…』では本を語ることの一つに「自分のことを語る」ということが書かれているが、この話を聞いて思い出すのはビブリオバトルだ。
最近、読書教育の一環で「生徒にたくさん本を読ませたい」という発想から、色々なところでビブリオバトルが読書教育の切り札のように流行している感じはある。
そのような観点から「ビブリオバトル」をすることは『読んだことが…』を読んだ後だと、やっぱり妙に感じられる。本を読むことで「語りうる」ことは本の内容そのものではなく、その本をめぐるあらゆる要素なのだが、最近のビブリオバトルに対する期待は「本をどれだけうまく紹介するか」ということや「子どもが本をたくさん本を読むようになる」ことに偏り気味である。
もともとのビブリオバトルの本の「本を知り人を知る書評ゲーム」というタイトルのうち「本を知る書評」しか残っていないのだから、まあ、本を読まない人にはハードルは高いままだし面白くないよなぁと思ったり。
また、「本を読むようになる…」ということを大人は期待するのかもしれないけど、ビブリオバトルで語られるのは「本そのもの」ではないことは『読んだことが…』で述べられていることからすれば想像できるだろう。だから、生徒がビブリオバトルで紹介している本を「レベルが引く」だとか「もっといい本を読ませたい」だとかのように「本そのもの」にしか興味のない教員や大人によって強制されるビブリオバトルは面白くないし、読書には生かされないんだろうなぁと感じる。
だからといって、「人を知る」ということばかり強調されても、人間関係が固定的な教室や学校で言われてもかなり苦しいし、その目的で本を読むことともっと自由に自分のために本を読むことのどちらに時間を取るべきなのかの議論をしだすと、もはやビブリオバトルである必要性はなくなってくるんじゃないかと感じる。
本を読むなら気楽に…
本を読むのは気楽でいいんだね。たぶん。
そこの「教育的」ということばが入ってきた瞬間に、何かが歪む。
まずは、教室の中で「正しく読める」ということが教えられると思うこと辺りを無批判に考えることをやめていくべきなのかなぁと感じる。
PISA絡みでやたらと「正しく読む」ということを言っている人がいますが、「正しく読む」についてちょっと不用意な印象はあるし、それを根拠に世間が無批判に「正しく読むことを教えられる」とされても困るなぁ…