我ながら挑発的なタイトルだと思う。
この本の一節に次のようなものがある。
子どもに「良い子」であることを期待し続けるということは、しばしば野心と理想の抑圧につながってしまうだろう。(P.87)
この言葉の重みを受け止められる教員はどの位いるのだろう?以前に書いた記事でも教員側の無神経を痛感したばかりだった。
それに追い打ちをかけられるような気持ちになったのが本書の一章だ。
「良い子」とは何か
大人である方々は「良い子」は好きですか?
妙な問い方であるので言い直そう、子どもは「良い子」になって欲しいですか?
おそらく、このような問いに対して積極的に「子どもは別に悪い子でいい」とまでいう人はいまい。「できれば良い子でいて欲しい」という控えめな願望から「良い子でないと困る」という強気な願望まで色合いの差があるかもしれないが、誰だって意識しないうちに子どもに「良い子」であってほしいと思ってしまう。
しかし、そんな素朴な思いに対して冷や水をかけるような言葉が上で引用した一節だ。
本書では「良い子」と「ひきこもり」の関係について述べられているので、話を拡大して一般的な「良い子」の話として考えていいかと言われると問題はある。
だが、それでも子どもに一番長く接する「大人」という立場の人間として、無意識であれ子どもに「抑圧」を強いることになる「良い子」であってほしいという思いを不用意に抱くことに危うさを感じてしまう。
教員を初めとする大人たちが「良い子」と呼ぶ子どもはどのような子どもだろうか。本書では次のような記述がある。
……おとなしくて従順で、それほど自己主張はせず、勉強などやるべきことは大人から言われる前に進んでこなし、家事なども積極的に手伝う…(中略)…それだけでは十分とは言えない。良い子の必須条件とは…(中略)…大人の期待に先取りで答えていくこと。自分を取り巻く”空気”の内実を瞬時に察知するだけのアンテナを鋭敏にはたらかせること。そうした身振りが半自動的に身についてしまっていること。(P.80)
つまり、結局「良い子」とは大人にとって「都合の良い子」なのである。
「良い子」が意味するもの
そんな「良い子」の属性について、本書ではさらに次のような説明も付け加える。
「悪いのはすべて自分である」と考えることは辛いことだが、不幸の原因について詮索したり、誰かのせいにして他人を恨んだりする苦痛を免れうるという意味からは、逃避行動のひとつでもありうる。その意味で「すべて自分が悪い」とする考えは、「自分の取るべき責任を明確にする」行為よりも未熟な段階なものである。(P.82)
わがままも言わない、文句も言わない、反抗もしない、そんな子どもは大人からすれば手がかからないから、まさに「都合が良い子」である。しかし、その陰にある子どもの「未熟さ」に対して鈍感であるし、無自覚にその「未熟さ」に付け込んでいるともいえる。
「良い子」キャラとは、そのまま未熟さを示す属性である。(P.84)
この言葉は「良い子」になってほしいと願う大人には、かなり辛辣な言葉だ。
教員は「良い子」になることを子どもに求めて、色々なことをやかましく注意する。それこそ学校の外から見れば理解されないような校則がまかり通っていることがあるくらいに。放っておけば、「あれはだめ、これもだめ」とどんどん縛りを増やしていく上に、「最近の子どもはろくでもない」という形で「良い子」でないことに怒りをぶつける教員さえもいる。
しかし皮肉なことに「良い子」であれと願うことは、上のロジックに当てはめて言うのであれば、「いつまでも都合の良い子どもでいろ」と押し付けるようなものである。
反発したり逸脱したりする子どもをあれこれと押さえつけて、そのあとに待っているもの、それはアパシーか不適応か未熟さのいずれかだろう。
教員の指導は
教員の指導は一体何を目指して行うのだろう。
もちろん、上のような書き方はかなり悪意のあるものだ。実際は適度に子どもを遊ばせていくし、適度に距離を取りながら、そして子どもの方も教員から距離を取り、自分たちの仲間のうちで自分の居所を作っていくものだ。
しかし、「都合の良い子」を求める教員と「良い子でいたい」という子どもとが不幸にも手を組んでしまったときに、そこで起こる不幸は周りからは気づかれないし、その不幸に気づく瞬間はおそらく教員は不幸になる子どもを見ることはないので、再び不幸な子どもを量産していくのだろう。
これもまた悪意のある書き方だな。
しかし、子どもをなめるようにかわいがる教員に対して、自分が抱いている嫌悪感の一端がここにあるのかもしれない。
自分は子どもを「良い子」になってほしいとは思っていない。自分の思い通りにできるほど子どもが単純でないと感じているからだ。
だから、子どもを大人にすることを願いたいのだが……。子どもをかわいがる気力が日々無くなっている。