次の授業をどうしたものかと思案している。
自分の基本に立ち返る
自分の教員養成は「子どもの現実」から考えよということをたたき込まれることから始まっている。教員のあれを教えたいこれをやりたいという詰め込みになるのではなく、子どもたちの生活の現実をよく見取って、授業で何をやるべきかを考えよということをしつこく言われてここまでやってきた。
そうやって授業をしていくと、一つの単元で狙うことが出来る力は一つ、二つであるし、毎回、単元をどうやって組み立てるかということをかなり悩むことになる。年間のカリキュラムやヨコの担当者とのバランスをどうするかと苦しむ羽目になっていますけど…。
大村はまとは何かを教えられてきたから、そういう形を目指してしまう自分もいる。同じ事はできないし、性格的にも向いていないのにね。
やっぱりいろんな事が気になるし、集中して授業のことだけ考えてもいられないし、学習材を見つけるセンスもない。
我慢強く、ギリギリまで考えることになる。…こういう非生産的なことを繰り返しての残業は非難されるのですよね、最近は。
あれかこれかを選ぶのが難しい
授業で扱う素材が決まってから、どういう単元の展開をするかと言うことを考えていると、一つの素材から「あれもこれも」と生徒に気づいて欲しいことや学んで欲しいことが出てきてしまう。
その素材に対してどんな反応をするのか、ということは、自分の経験値が増えてくるほどに、予想もできるようになってくるし、実際の生徒の反応を見れば、どんなことを考えているのかということも見えてくるようになる。そうなると、今度は「こういうことも出来るかも」「ああいうことも出来るかも」というような、「あれもこれも」という気持ちが捨てられなくなってくるのである。
特にそれが定番教材となると、もう隅から隅まで何度も読んでいるし、生徒のあらゆる様子を見てきたからこそ、「あれもこれも」という気分を捨てられなくなる。
ただ、そうやって「あれもこれも」ということをやっていると、結局、何も教えられなくなる。全てが中途半端になる。
最近、授業を作るのが遅々としている原因の一つが、何周か教科書を回しているので、どうしても生徒の「あれこれ」が見えているだけに「あれもこれも」を捨てられなくなってしまっているからだ…と思う。
しかも、せっかく授業を何週目かになるのであれば、以前の自分よりも上手くやりたいじゃないか。そうなると、あれもこれもと足し算式にどんどんと増えて行ってしまうのだ。
シンプルにいこう
こういう状態を自縄自縛という。
勝手に、自分でやるべきことを作り出してしまって、結局、そうやって単元を作っていると生徒不在の学習活動が出来上がる。
授業が忙しくなる。
そうなると生徒の見取りがいい加減になる。
悪循環である。
自分の教えられたことにシンプルに戻ろう。考えるべきは、生徒の姿である。きちんとシンプルに必要なことに焦点を当てて、今日もまた授業を考えるのである。
その結果が「山月記」すごろくを作ろう……になってもいいんだ…と割り切りたいのだが…。