メモを取る、メモを構造化するということは国語科の授業にとってはかなり大切なことである。
しかし、メモを取るという行動は日常的に勝手に身につくものではない。
どこかでメモを取るという訓練を授業で受けてこないと、メモを取るという習慣はなかなか育たない。
メモを取る方法や大切さや活かし方を教えないで、「子どもたちはメモを取らない」と憤っている人を見ると、「そんなに書くことは簡単じゃないんだけどなあ…」と国語科の教員としてはぼやきたくもなる。
ただ、メモを取る技術というものは、なかなか言語化して「技術」として教えることは難しい。メモの取り方は個人の嗜好がよく出る。「これでやれ」という方向で指導するのはあまりよい感じにならない気はしている。
ある程度のポイントは押さえつつ、あとはひたすらメモを取る文脈を用意して、メモを書くという練習をしてもらうしかないのである。
じゃあ、どの授業で…?
「書くこと」は国語科の出番である。
国語科の授業でどれだけメモを取る場を設定しているだろうか。板書を写すことはメモを取ることにはならない。
また、「メモが重要だ」と叫びながら、メモを使っている様子が無いのでは、説得力が無いだろう。
メモを取っている姿を見せることが意味があるのではないだろうか。
たぶん、今後生成AIが性能アップしていくと、ますます自分で手書きでメモを取る意味が見えづらくなる。音声を文字起こしして、AIで構造化ができる…となるとメモを自分で作るのはなぜでしょう?
自分もつまらない会議や出張はもうAIに丸投げですね…。