ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

なぜ「古典」を学ばなければいけないのか

こんな記事を読みました。

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自分にはこの問いに対して、公にできるほどの答えは持ちません。自分自身、大学の時の専攻は言語学ですから文学だとか古典だとかの価値について論じよといわれても、本質がわからない上に、自分自身が疎いので呑気なことを無責任には言えないのです。

ただ、最近、読んだ本でこんな本があったことをご紹介しておきます。 

古典について,冷静に考えてみました

古典について,冷静に考えてみました

  • 作者: 逸身喜一郎,田邊玲子,身崎壽
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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国語教育でいうところの「古典」だけを扱った本ではなく、「Classics」に当たる「古典」についてを中心的に論じ、考えられている本です。

古典という様々な位相を含む言葉

この本は日本の「古典」だけに限らず、というよりは、そもそも「古典」という言葉が論者によってさまざまな意味を含みこんでしまっていることを問題として挙げて、論じていくことから話を始めている。

中国における古典の果たした社会的・歴史的な役割や西洋において「Classics」という言葉が特別視されていく過程や『源氏物語』が「古典」として受容されていく過程が論じられているが、そこで用いられる「古典」という言葉の位相のギャップはかなり大きい。

どうしても、国語教育村にいると「古典」を限定的にとらえて、日本の古典とそのほかの世界の書籍を区別してしてしまいがちだし、授業で射程に入ってこないことの方が多い。

一見、迂遠に見える議論ではあるのだけど、なぜ、日本の「古典」を学ぶのかという問いについて考えていくためには、「古典」という言葉の多重性を考える意味はあるように感じる。

学校教育現場における古典について

と、いうのも、この本の最終章で「学校教育」における「古典」について、「伝統的な言語文化」が学習指導要領に上がってきたことなどを踏まえて、どのような問題点があるか、どのような思想的な危険性があるのか、そしてどのような新しい試みがあるのかについて論じているが、そこで述べられているように「古典」が日本のものだけに限定されて、ナショナリズムに安易に結びつくことに対する警戒感を教える側は持たなければならないからだ。

また、それとは別に、「古典」は「過去の美しい表現がある」「伝統的な価値観を知る」などのように安易に語られがちだが、そういった「古いからよい」というような言い方を教員が安易にすることを自戒するためにも、「古典」の位相を知っておくべきだろう。古いからよい、伝統だからやるべきだというには、教科書の本文が何かを底本にしている以上、思っている以上に「ありのままの古典」ではなく、誰かの、何かしらの解釈にさらされているものであることは無視できないように思う。「古典は伝統だからよい」というイデオロギーを支持するというのに、「教科書の文章は、イデオロギー的には無色透明のありのままのものである」というのはかなり不自然ではなかろうか。

まあ、そういうややこしい話は偉い人に任せるとしても、古典という教材を考えるときに、国語の教員として、古典に対してどう付き合っていくのかについては考える必要があるんだろうなぁ…と思います。

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