ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

「読むこと」を支えるものはなにか

tiger...

「山月記」に向けて悪戦苦闘中です。

昨日も書いたけど自分にとって「読む」という行為が一体どのようなものかということについての見立てがないことが問題だと思っている。 

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そのために「読む」とはどういうことなのかを今日は少し考えていたので、思いついたことを書き綴ってみよう。

力強い渡邉先生の実践に学ぶ

何もないところから徒手空拳に考えることがどうもできなかったので、以前にも読んだ渡邉久暢先生の実践が紹介されている本を再読した。 

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教室における読みのカリキュラム設計

教室における読みのカリキュラム設計

 

この本で渡邉先生の実践の分析の仮説として挙げられていた次の内容について、今日は自分の中にひっかかりを覚えた。

……生徒たちが述べる「楽しさ」・「面白さ」には、以下の3つの意味内容があることを、共通理解(=共同研究者間の理解のこと)していった。

第1に、自力で心情変化のストーリーを作る「楽しさ」・「面白さ」である。言い換えると、確かな読解スキルを活用して問題を解決し、未知を既知にする「楽しさ」である。(中略)

第2に、他者との相互交流を通して問題を発見する、既知を未知にする「楽しさ」・「面白さ」である。(中略)つまり、生徒たちは、いったん構築したストーリーに矛盾を発見したり、他者が構築した複数の異なるストーリーを把握したりすることで、ストーリーを壊す「楽しさ」・「面白さ」を表現していた。

第3に、読んだことが自身の人生や生活に生かされたり、読むことを通して自身の生き方が問われたりするような「楽しさ」・「面白さ」である。 

(PP.102-103)

自分にとってブラックボックスになってしまっている小説を読むことの「楽しさ」・「面白さ」を段階に分けて明示的に整理していることに、まずは大きく気持ちが引かれる。

このまとめに基づいて考えるのであれば、「なぜ教室に小説を読まなければならないか」ということについてもある程度の答えを出せる。

心情の見つけ方や象徴表現の解釈の仕方などを指導する意味としては、生徒自身が自分の物語を作るために必要なことで、スキルがあることで妥当性のあるストーリーを見いだせるということだし、「対話」が必要になる理由にはストーリーをよりよいものへと再構築するためには他者の視点の重要度が必要であるからこそだ。

さらに、そうやって「素材」自体を読み深めることによって、様々なストーリーを物語れるようになってこそ、初めて自分自身のことと物語を「対等に」検討する余地が生まれてくるのだろう。

本気になって読めないものを語り合おうとは思わないし、語る価値がないものを自身に比することもない。

非常に理にかなっているし、国語科として「小説を教室でなぜ読むか」ということを考えるヒントになっている。

小説を読むことを支える気持ちはどこから生まれるのだろう?

一方で教室で小説を読もうとするときに、教える側として心苦しいのが「つまらなそう」に渋々と授業に臨んでいる生徒の様子を見ることだ。

どうしても教室で読む文章は教員が選ぶものであり、生徒が読みたい文章とは限らない。リーディング・ワークショップの根本的な地点が「読みたい本を読む」「自分にとって一番良い本は自分が知っている」ということからすると、まったく異なることをやってしまっているなぁと感じる。 

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あすこま先生がうまく「読書」と「読解」が二分法で語られることの問題意識をまとめてくださっているけど、これと同じような問題をやっぱり自分も感じる。

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つまり、教室では国語教師が「読解」の技術を丁寧に教え、読書は生徒が教室の外で個別に行う私的なもの、ということになったのである。学校の国語の先生は、「本を読め」と言うことや課題図書を課すことはあっても、授業中に実際に本を読む時間を取ることはない。授業中は、先生が選んだ文章や教科書の文章を、全員で「読解」する。そんなスタイルが「当たり前」になっていったのである。

生徒に対して技術を教えるのに実践の場所を与えないというのは決して自然ではないと感じる。水泳の方法を口伝するだけで水の中には入れてやらないというのと同じではないか?

話を元に戻すと、やっぱり教える側として「つまらなそう」にしている様子をみるのはつらいものがある。だからこそ、生徒がどうやって前向きな気持ちにできるのかを考えたくなる。

自分の中の感覚としては「知りたい」という気持ちは、「読みたい」という気持ちに繋がるのではないかと感じる。小説の世界は決して現実ではない。それは学校の教室でもそうだ。だからこそ小説と自己を比べられることに魅力がある。

でも、小説と自己と相対的に位置づけるためには「教室における読みのカリキュラム設計」の引用部のように、自己の物語るストーリーとそれを練り上げるための他者との対話が前提に必要だ。そのような手間を粘り強くかけられるためには、どうしても強いモチベーションが必要だ。

そのモチベーションのために「この物語を知りたい」という気持ちを持つことは重要なのではないだろうか。

「知りたい」というひっかかりのために

そんな思いをぼんやりと抱いていたからこそ、去年はきっと初発の感想を使うことを考えたのだと思う。

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素朴に「なんだろう?」と個人の生徒が思ったことを、自分が初発の感想集として意図的に整理し、他の生徒と「つなぐ」ことで、自分たちの読みを追究したくなるのではないかと思っていた。だからこそ、問いをできるだけ自分たちにとって必要だと思えるようなものにするために「知識構成型ジグソー法」という手段をとって、一つの小説と自分の読みたい角度から読ませることと、複数の視野を組み合わせることで新しい読みを生み出すという展開を狙ってみた。

結果的に「気持ちを継続する」ということについては、それなりに効果はあったように感じるが、一方で読みを深めて自己と比較していくという面白さまではたどり着かなかったかもしれないなぁ…とは感じる。

だからこそ「山月記」では、そこから一歩進めたいと思っています。果たして、どうやればいいか……ジグソー法でやるのはたぶん生徒が経験あるから混乱も少ないし、自分もネタがあるので計画するのは簡単だし、やりやすいと思うんだけどね…。

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