ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

読解力の一面

word

また、国立情報学研究所の新井紀子教授の研究グループが読解力についてのテストで話題を提供してくれているようです。

「子供は読めているのか」診断テストを開発ー毎日新聞

「高校生のための学びの基礎診断」の測定ツールとして認定を目指す……という文言はちょっと気になりますが、エビデンスベースで現状を把握しようとする試みは意味があると感じる。

あとは少しばかり思うことを。

読解力の一面として

このテストで測ろうとしている読解力は間違いなく、読解力の一面として意味のあることではあると思う。ここで問題となっている短文やグラフを正確に読めないで内容を理解できないという生徒は驚くほど多い。

何か明確な指導の方法が国語教育としてもあるわけではないし、むしろ、それくらい読めるだろうと思っている教員が多いことを思えば、国語教育の盲点を突かれたといっても過言ではない。

まあ、能力の判別として良問であることとその能力で測っている能力が適切なのかは自分にはよく分からない。公開された問題の一部を見ていると、どちらかと言えば悪文という印象のほうが強いし、悪文を読めるようにする指導に意味があるのかは分からん。教科書や新聞でそういう文章が出るので実用的には意味があるとはいえるかもしれないけど。

ただ、係り受けなどを丁寧に読めるようにする指導をする意味があるだろうなあという数字が出ていることには意味があるし、立ち止まって指導の方法を検証すべきだろうなとはいえると思う。

全体の中の一面だろうなぁとは思う

もう、いい加減古い気もするけど、知っている人も多いだろうから「読解力向上プログラム」を例にしてみる。

「読解力」向上に関する指導資料[参考資料][読解力向上プログラム]

こういうところでも挙げられている観点を見れば分かるけどけど、「読解力」は「文が正しく読める」ことだけではない。

「評価」したり「解釈」したり「非連続テキスト」が含まれていたりと、実に様々な側面がある。

まあ、そのような多面な読解力の側面は必ずしも「正確な理解→高度な活用」という訳ではないとは言われているし、「理解」や「表現」などは非常に複雑なプロセスであり、単純に基礎から応用とはならない。例えば 

理解するってどういうこと?: 「わかる」ための方法と「わかる」ことで得られる宝物

理解するってどういうこと?: 「わかる」ための方法と「わかる」ことで得られる宝物

 

で色々な要素を丁寧に検討して、様々な方略が記述されているけど、決して初学者には基礎基本の徹底をさせることで成長するなんて単純なことは書かれない。

まあ、自分としてもあまりちゃんと検討したわけではないので何も言えないのだけど、たぶん、「こんな簡単なことを勘違いしているのか!」と思われる一方で「こんな高度なことまで考えているの!」ということが起きる気はする。ある意味で「そりゃそうだろう」と言えてしまうことなんだけど。

だから、リーディングスキルとして基礎基本的な読解力を想定するのもよいのですが、それができなければ先に進めない、それができない生徒は劣っているというのは、教員の生徒の見取りとしては一線を引いておいたほうがいいでしょう。

たぶん、月曜日になると今回の記事をネタにして「ほら、最近の生徒は全然文章読めないでバカになっている」と嬉々として語る教員は全国に数限りなくいるでしょうし(笑)。

やっぱり反論しておくけど

今回の発表の詳しい説明は今後あるそうなのだけど、当面の資料として示しているものとしては

www.nira.or.jp

のオピニオンペーパーだそうな。

このオピニオンペーパーを読めば、テストの仕組みはよく分かるし狙いもよく分かります。ただ、このペーパーの中の

国語は、母語であるからという理由から、「自然に身に着くもの」と前提し、その運用を論理的に指導する場面が少なかった。例えば「Aならば B」という文が真であるとき「B ならば A」が真であるとは限らない、とか、「誰もがAである」という文が真であるとき、「Aでないような人はいない」が真であり、「Aである人もいる」が偽である、ということを教えるような場面は国語ではほとんど見られない。
グラフや表の正しい読み方、箇条書きの正しい書き方、資料の妥当性の検証などの論理的な活動は、筆者の気持ちを推し量ることや、発表するというような活動に比べると圧倒的に少ない。

という部分については、ちょっと言いすぎかなぁと思う。

「「自然に身に着くもの」と前提し、その運用を論理的に指導する場面が少なかった。」というのは、文法教育をやっている(つもりの)立場からすれば随分、乱暴な言われ方だなぁと思うし、「筆者の気持ちを推し量ること」をする国語の授業のイメージも先入観に近い気はする。

そう思われる授業が少なくないことを分かったうえで言っておきますが、最近の国語の教科書や授業の実践はそれでも「論理的な活動」としてグラフの読み取りだとか情報活用だとかも指導要領に明記され、教科書にも反映されている。まあ、現場が対応できているかと言われれば……反論の余地はないです。

ただ、牛歩でも変化していることについては、正確に言及されたいところである。

関連記事

過去に何度か読解力や国語の授業に対する誤解については書いています。

www.s-locarno.com

www.s-locarno.com

www.s-locarno.com

www.s-locarno.com

 

Copyright © 2023 ならずものになろう All rights reserved.