ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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【書評】リーダーシップと学校

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何のための教育なのかということを考える時に、単純で分かりやすい答えとしては「社会で役に立つ人材を育てる」というものだろう。

しかし、この答えは非常に曖昧なものであるし、その時々の社会の都合に簡単に振り回されるような危うさを持っている。だからこそ、「社会に役に立つ」という言い方ではなく、もう少し切実で具体的なビジョンを持てないかと思うのだが、その一つの解として、「リーダーシップ」という言葉が挙げられるかもしれないと、最近出た本を読んで感じた。

リーダーシップ教育のフロンティア【研究編】: 高校生・大学生・社会人を成長させる「全員発揮のリーダーシップ」

リーダーシップ教育のフロンティア【研究編】: 高校生・大学生・社会人を成長させる「全員発揮のリーダーシップ」

  • 作者: 中原淳,舘野泰一,高橋俊之
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2018/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 
リーダーシップ教育のフロンティア【実践編】: 高校生・大学生・社会人を成長させる「全員発揮のリーダーシップ」

リーダーシップ教育のフロンティア【実践編】: 高校生・大学生・社会人を成長させる「全員発揮のリーダーシップ」

  • 作者: 中原淳,高橋俊之,舘野泰一
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2018/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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研究編と実践編の両面からのアプローチは、現場で「何のための教育か」と悩んでいる人に、面白い視座を与えてくれるように感じる。

理論と実践の往還の意義

本書の内容の紹介に入る前に、なぜ本書が「研究編」と「実践編」の二冊で書かれているのかということを紹介したい。

二冊の両方に共通して、監修者の中原淳先生の挨拶の言葉が冒頭に掲載されている。その中で、今回の本が「研究編」と「実践編」の二冊に分かれていることについて、以下のような説明をしている。

……本書が、なぜ「研究編」と「実践編」という2分冊を採用したのか、その理由を簡単に付記しておきたい。それは、リーダーシップ教育論、リーダーシップ開発論といった領域が、「研究と実践」「理論と実務」という2つの異なる領域を常に架橋しつつ、そこで得られた経験や知見を「往還」しながら発展していくものと、本書の執筆らが強く信じているからに他ならない。

つまり、研究と実践の両輪が必要であるという強い意志の表れである。

もちろん、2冊は、必ず両方を読まなければならないというような性質のものではない。しかし、結果的に、自分で実践を深めていくためには、どこかで理論に立ち返らなければ、実践編で紹介されている実践を真似しているだけでは行き詰るし、研究編だけで理論を追いかけようとしても、そもそもリーダーシップ教育研究に企業と学校(大学・高校)の断絶が問題として根本にある以上、どこかで現場に参与しなければならない部面もある。

まさに、往還が必要なのである。

とはいえ、おそらく、現場の教員からすれば「実践編」の方が読みやすい。「実践編」で具体的なイメージや生徒像をイメージしたのちに、「研究編」で同じ実践事例の研究的な背景や詳しい授業設計理論を辞書的に読んでみることから始めればよいのだと思う。

もちろん、逆に「研究編」から見てみてもよい。自分は「研究編」に書かれているような理屈が分からないとあまりやりたくないなぁという性格なので、「研究編」から読みましたが、そのあとに「実践編」を読んで、「研究編」の数値や理論で抽象的に書かれていることの意味を深く理解できたようにも感じます。

慌てなくてもいいので、好きな方からじっくりと読んでみるといいと思います。非常にうまく「往還」が設計されている本です。自然とどちらかを読み進めるうちにもう一方が必要になります。

一般的なリーダーシップのイメージから転換

実はリーダーシップという言葉は非常に曖昧である。わかったつもりでありながら、個人個人で内実が大きく異なるイメージであることも少なくないし、そもそも「リーダーシップ教育」と言いながら、「何のためのリーダーシップ」か「そのようなリーダーシップ」かということが明らかにできないのは望ましくはないだろう。

今回の2冊ではリーダーシップの定義については、「研究編」でこれまでの研究史が詳しく紹介されている。詳細な内容は実際に読んでいただくとして、ここでは結論を紹介しよう。今回の2冊におけるリーダーシップの定義は以下の通りである。

職場やチームの目標を達成するために他のメンバーに及ぼす影響力 (研究編P.27)

分かりやすく補足すると、この定義は「リーダーシップは権限や役職にかかわらず発揮することができ、学習可能」(研究編P.58)であり、「自分の特徴に合った行動をすること」(実践編P.38)なのである。

この定義の求められる背景については、「実践編」での舘野先生のコメントが分かりやすい。

……こうした考え方(引用者注:サーバントリーダーシップやシェアドリーダーシップなどの「カリスマ型」ではなく「他者への影響」という観点から考えるリーダーシップ論)が受容される背景には、今の社会が①複雑かつ変化が多い、②創造性が求められる、③スピードが求められる、という環境になっている部分もあります。(実践編P.38)

まあ……ある意味で、最近よく耳にする「アクティブラーニングが必要な背景」と重なる部分が大きいわけです。アクティブラーニングとの関係はもう少し後でも述べよう。

この定義では、リーダーシップのイメージは従来の「一部」人びとのものであり、「才能やカリスマ」であるため学習不可能であり、「引っ張る」イメージに限定されていたリーダーシップのイメージから、「全員」が「学習可能」な「引き出すや聴く」を含む概念へと転換が行われている(研究編P.60)のである。

特に重要だと思うのが「学習可能」という観点でしょう。学習可能でなければ、「学校」が扱う意味がない。「学習可能」だからこそ、本書では以下のような4つの具体的な資質の要素として定義されるのである。

  • リーダーシップの基礎理解
  • 倫理性・市民性
  • 自己理解
  • 専門知識・スキル
(研究編P.59)

さらに本書ではそれをどのように概念として構造化していき、実際の実践へ設計していくかについても述べられているが、本書の急所でもあるので下手な解説はせず、続きは実際に各自が確かめてほしい(昔のVジャンプ攻略本風である)。

「倫理性・市民性」という言葉の重さ

個人的にはこの「倫理性・市民性」という概念の持つ意味は重いように思う。

アクティブラーニングの文脈でもそうだが、「社会の役に立つ人材」という言説が繰り返されやすいが、この場合の「社会」は「企業」に置き換えられる程度のものに過ぎない場合が多いのだ。だから、この文脈での「学校」の役割は「企業」の教育研修を肩代わりさせられているに過ぎないのである。

「アクティブラーニング」の文脈では、「社会へのトランジション」という概念が重要になると思うのだが、どうしてもそれは「企業のために役に立つ」というニュアンスで捉えられやすい。もちろん、そのような狭義の意味での「社会」というニュアンスではないのだが(詳しくは、『活躍する組織人の探究: 大学から企業へのトランジション』など参照)、誤解と反発を招きやすい。

だから、「リーダーシップ」についてもそのような誤解を招きやすいことは間違いないし、現実的な問題として、高校の場合、淑徳与野高等学校の例のように

…受験が見えてきて、保護者の求める優先順位が長期的なキャリアビジョン策定よりも受験指導にあるという学内の声もあった。(研究編P.175)

と「研究編」でも紹介されている通り、簡単に「リーダーシップ」を教育の前面に押し出すことは出来ない。

しかし、そこに逆説的に「倫理性・市民性」という言葉が具体的な学習可能な資質としてあらわれてくることの意味があるように思う。

つまり、「学校」の教育の目標として、短期的な「企業」の研修や教育の肩代わりになることでもなければ、高校の出口だけの「受験指導」でもないという目標として、「倫理性・市民性」が考えられるのである。

この視点のメリットは「実践編」に分かりやすく述べられているので紹介すると

1つには、リーダーシップは企業やビジネスの世界に止まらず、広く社会をよりよいものにするために有効だからである。もう1つは、学生や生徒たちが「こういう社会にしたい」という強い想いを持つと、困難なことにも挑戦していけるようになるからだ。(「実践編」P.125)

ありていに言えば社会の「当事者」としての学びとして、リーダーシップである。

教科教育を中心に学校に関わっていると、真正の課題といいながらも、教科の理論が教室の外の理論と矛盾するような事態は当然のように起こる。真正性と教科の理論は矛盾するものではないとは思うのだが、それを架橋する発想が自分には足りなかった。

しかし、ある意味でリーダーシップという観点は、その役割になるかもしれないとぼんやりと思い始めている。

リーダーシップ教育の再帰性

最後に、本書で最も教員にとって厳しいと思う指摘を紹介して終わりにしよう。

……教える側が自分自身のリーダーシップについて考えることは重要である。なぜなら、自分のリーダーシップはクラスに影響を与えるからである。リーダーシップを教育をおこなうものは「教育者」という役割だけでなく、自分自身も授業を構成する1人の「メンバー」である。よって、授業という集団の目標達成にむけて、他者に影響力を発揮する主体として捉える必要がある。

このように、リーダーシップ教育においては、自分自身も特権的な立ち位置にいることはできず、「リーダーシップを学べというあなたはリーダーシップを発揮しているのか?」ということを常に問われるという再帰性を持っているのである。(「研究編P.101)

教員のリーダーシップという言葉は意外と以前から聞いている。しかし、それが、「授業」「教室」というプロジェクトの中の一人、当事者の一人だという文脈で使われることは多くなかったように思う。

この終わりのない、教育というプロジェクトを続ける教員像……まさに、学び手としては生徒と対等であるし、一方で「教育者」なのである。

生徒の成果から自らの教育の成果が問われ、自らの教育が問い直され、再び、生徒へと還っていく……。

なんと、躍動的で、スリリングなプロジェクトだろう!

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