ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

どういう課題でチャレンジするか

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今日も休み。一日を使って、今後の授業をどういう展開にしようかということを考えていた。

やらせたいことをそのまま言わない

授業を作るときには、もちろん「こういう力をつけたい」という目標を考えながら授業をデザインする。しかしながら、「目標」が定まったところで、その目標ややらせたいことをそのまま「○○しなさい」なんて言っても駄目なのです。

そういう言い方をすれば、生徒は意識して活動するだろうし、振り返りには「○○を出来るようになった」というような文言が並ぶようになるだろう。しかし、まさにそれは形式的になるだけで、内実がどのような展開になっているかということに意識が向かなくなってしまうのである。

目標を提示することも、振り返りを行うことも、それなりに効果があるということは、色々な調査で話題になってきているけど、それをただ形だけ取り入れて形式的に授業の最初と最後に儀式的に行うのでは、全く意味が無いのである。

じゃあ、どうするか。

自分がやはり大切にしていることは「やってみせる」ということである。つまりは、教員による見本を作ることを大切に考えている。

教員、授業者自身が実際に授業の中の言語活動をやってみることで、どのような思考の過程になるのかと言うことが分かるし、出来上がった見本が「何をするべきか」ということを言葉以上に雄弁に伝えてくれるのである。

当然、作り直すということも多々起こる。

自分がセンスがないということもよく分かってへこむことも多い(泣)。

生徒に対して自分の能力を晒して批評を受けるというのも大切だなぁと思うのですが、どうもサボりがちになる。

まあ、下手くそであるのは困るのだけど、手本を見せたりガイドしたりすることで、だんだんと生徒が自立してくるということには経験則がある。

まさに、「学びの責任」の観点である。

色々な工夫をしたいなぁ…。

少しずつ越境する

今日の教材研究のネタはこちら。

留学生向けのアカデミックスキルの本をネタに、授業を作れないかなぁと検証中。

自分が普段あまり意識しないようなことを、ちゃんと練習させているという点に面白さがあるし、一つ一つのスキルが「現代の国語」や「論理国語」の授業作りで参考に出来そうな気がしているので、あれこれとネタ探し。

もちろん、母語話者にそのままやらせても、あまりに配慮がないので、どうやって教室に下ろせるかをやっています。

その際に、まさに自分でこのドリルや練習問題を解いてみるという過程が出てくる。

それがとても面白い。自分の普段やっていることが意識化されて捉え直されるような感じがする。

まあ……この授業を実施できる教室がないのですが……いつかやるための仕込みと言うことで。

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