ICTは道具に過ぎないと言うけれど、その道具を使いこなせないがために、授業の可能性を減らしているとしたら、それはそのままで良いのでしょうか?
自転車のようなもの
スティーブ・ジョブスはテクノロジーのことを自転車に喩えたという話は有名だ。
一人一人に与えられることで、これまでは到達できなかった点にたやすく到達出来てしまうというアナロジーは非常に分かりやすい。
そこから少し話を広げて教室でのテクノロジー利用の現実と比べて考えてみるとより一層、色々なところが似ているように思う。
使い方を誤れば使わないよりも大きな事故を起こす可能性もあるし、使い手が習熟すればするほどに道具の価値が高まっていく。そして、使えば使うほどに安定するはずの自転車を、無理矢理に整列させて低速運転させようなんてすると、みんな揃って転倒してしまう。
危険で厄介なものだから教室から排除する?でも、生徒は現実の世界で使い回しているのだから、学校が見て見ぬ振りをして、事故を起こしてから生徒を叱るという方法はやや無責任に感じる。
大枠のルールと重大事故防止のための安全策を教えて、その上で生徒一人一人に使い方を委ねることで、使い倒して使い手として成長してもらうという発想である。
自転車の乗り方を教えるときに、手取り足取り教える大人はそうは多くないだろう。子どもたちにコツを教えて、怪我をしない注意点を指導したら、あとは少し支えて上げたり、手放して見守って上げたり、子どもたちが使い方に慣れることを我慢強く見守りつつ、成長を促している。
これがことICTになると、どうしても手取り足取り監視したくなり、使わせないという縛りをつけるのだから、認知というものは難しいと思う。
道具に過ぎないけれども道具があるから出来る
「ICTは道具に過ぎないから無理矢理つかう必要は無い」「ICTは道具なのだから、道具に振り回されていたらダメだ」などという言説をよく聞くのだが、道具がないと出来ないことの方が多いということが無視されているように思う。
使い方を覚えたり、生徒の混乱に対処したりと、最初はやるべきことのハードルはもちろんあるが、転んでしまうからといって自転車に乗ろうという意欲が削がれないのと同じで、失敗しても「やってみたい」「使ってみたい」という意欲は削がれないはずだ。
ICTを使わなければ、生徒の作品をお互いに見合ってコメントし合うという授業は年に何回くらいできるだろうか、ICTを使わなければ自分の思考の過程を美しく手軽にアウトプットするのにどれくらいの手間がかかるだろうか、ICTがなければ2000字以上のレポートを何度もやりとりしながら仕上げるという授業を出来ただろうか……。
根気が必要なことは多くある。どうしても道具として面白いもの。遊びたくなるよね。
でも、その遊びの先に、圧倒的に今までは扱えなかった情報量や表現の手札が用意されているのに、授業で使える可能性があるのに、授業者がそれを見ないふりをする我慢などできるだろうか……。
楽しいものが転がっているのに、お預けなんて我慢はまっぴらごめんである。