GIGAスクール元年も終わりを迎えつつある年度末。
今年度のふり返りと次年度への計画を考え始める時期だと思います。
さて、GIGA元年を終えて、学校はICTに対して前向きになれているのでしょうか?
色々な話が聞こえてくる
GIGAスクール構想で与えられた一人一台端末。この教育成果については様々な話が聞こえてくる。
その話はどちらかと言えばネガティブなものの方が多い。実際問題、職場の同僚のお子さんの話を聞くと「ほとんど使っていない」「オンライン授業の時だけ貸し出された」というような話が非常に多い(これも自治体の差が大きいので一概には言い難いのだが)。
ちょっとデータとしては古いけど、こういう調査結果もニュースになっていた。
学校法人先端教育機構の「月刊先端教育」編集部が全国の教育委員会に尋ねた結果でも、端末を学校外でも活用しているという自治体は、3月の時点で4割弱にとどまっている。(2022/03/20 確認)
GIGAスクール構想の本筋から行けば「ほとんど使っていない」「持ち帰っていない」ということはかなりよくない。
(通知)GIGAスクール構想の下で整備された1人1台端末の積極的な利活用等について(令和3年3月12日)
去年の段階できちんと準備して学校内外で活用することが強調されているのだが、実際、一年が終わってみると厳しい状況であるように感じる。
変化の大きさ
ICTを活用するということは、学校にとっては大きなチャレンジだ。今まで起こらなかったトラブルを抱える覚悟がなければ手を出すことは確かに難しい。
しかし、様々な社会の状況を考えれば、挑戦するだけの責任があると思う。
形としては押し付けられたような形になっているので、多忙で厳しい学校に対してなかなか酷な要求だとは思うが、優先度の高い仕事だろうとは思う。
取り組まなければならない以上、チャレンジの連続となる。今月の『教育科学国語教育』の中で東京学芸大学の高橋純先生がこのチャレンジの難しさを端的に表現して述べている。
授業のデジタル化に際して、生涯にわたって能動的に学び続けるための力を子供一人一人にしっかりつけるなど、本質的な部分から学習指導の見直しが行われている。結果として、子供一人一人が、個別にも協働にも学ぶような複線型の授業となっている。ハウツーだけでたどり着くことが困難である。
(高橋純(2022)「1人1台端末活用の授業づくりの基礎基本」『教育科学国語教育』No.868)
学校の中の授業が大きく動いており、その変化の大きさへの対応が単なる「ハウツーだけで」はないということを端的に表現してくれているように思う。
なかなか文字だけで伝わるか心許ないところだが、現場の教員の実感としてはこの高橋純先生の説明は、かなり的を射ていると感じる。
本質的なチャレンジ
同論考ではさらに続けてこのような変化を次のようなたとえ話で説明している。
例えて(原文ママ)みれば、昔、どの駅にも設置されていたチョークで書く伝言板の顛末が興味深い。(中略)ようはデジタル化により伝言板は不要になったのである。本質は伝言板をデジタル化することではなく、お互いにメッセージをデジタルで確実に届けることであった。(Ibid 下線強調は引用者による)
まさにGIGAを巡る混乱の原因がこのたとえで述べられることを理解できなかったことにあるように感じる。つまり、道具をどうするかにばかり目が行ってしまい、本質的な目的にまで議論が進められなかったのではないか。
もちろん、ICTを学校に持ち込むことの意味、本質とは何かということに答えることは難しい。
文科省や経産省が色々な文書やメッセージを発しているが、結局、公的な文章からいくら表現を引用してきても、授業をする当事者がその必然性に納得しなければ、変化させることの本質が見つけられない。
今回の論考では、そうした本質を見つけることの難しさも言及しているので、引用して紹介しておこう。
ただし急に伝言板が消えなかったように、デジタルに徐々に慣れたり、何度もチャレンジしたりして、感覚を身につけないと新しい授業にはたどり着かない。最初は無駄なこともある。(中略)過去から大事にされてきた本質は依然として重要である。授業を本質から問い直して、デジタルに合わせた新たな授業を作り上げていく必要がある。(Ibid)
授業づくりは授業者の感覚が非常に重要だ。
「感覚」というと「お前は授業を感覚でやっているのか」とあたかも非合理な方法をしているかのように取られてしまいがちであるが、実際問題、授業者の肌感覚は重要だ。
教室の中で子どもから受け取る雰囲気や素材の持っている勘所のようなものは、授業者の経験に裏打ちされた感覚である。
だからこそ、まだ感覚的になじめない状況でICTを十全に活用した授業……ということを焦って期待するのは難しさはあるだろう。
逆に言えば、チャレンジしなければいつまで経っても教員の、授業者の信頼できる感覚は身につかない。使ってみないと分からないことは教員も生徒も数多くあるのだ。
逆に言えば教員は授業の本質や付けたい学力については一家言あるはずなのだから、その本質についてICTをどんどん挑戦的に使ってみることで、分かることや出来るようになることが加速度的に増えるはずだという期待はある。
失敗の天秤
しかしながら、学校の内部のメンタリティは挑戦に向いていない。
基本的に学校の中の「失敗」の天秤は、「やらないことで起こること」の方が「やらかして起こること」よりもマシだという判断をする。
チャレンジとは面倒ごとを自分から引き寄せるという行為である。
そうして起こした面倒ごとを一緒になって引き受けてくれるチームがないと、こうしたチャレンジを行うことは難しいのだ。
自分一人で突っ走るという手もあるが、結局、最後の「権限」のところで、チームが納得しないものは先には進められないのだ。チームを作ることができなければ、授業に挑戦することも難しい。それはまどろっこしくて、バカバカしいと思うことも多いのだが、逆に言えば慎重な安全弁として子どもを守る機能にもなっているので、ただ暴言を吐いて出来ないことを恨んでいるだけではならないのだ。
ちゃんと本質を理解して、必要生を論じられるならば、仲間を得られるはずなのだ。そういう難しいチャレンジを多くの先生がしていることを、ぜひ色々な場面で共有されたらよいなぁと思うのです。