都内の書店に出かけるチャンスがあり、教育の棚を眺めるなどする。
実践を知ることから
自分の授業をよくしたいと考えるのであれば、常に授業研究は書かせない。
日々の授業研究に追われて教科書の文章をどうするかということばかりに気を取られていると、まったく授業の腕は上がらないしアイデアも出てこない。
目の前の生徒の実態を理解することと、目の前の授業に負われてしまうことは似ているようでかなり違う。
自分の授業を発展的に工夫していくためには、目の前の授業とは異なる遊びをいくつか考えておかないと厳しい。
教育書がノウハウに寄っているものが多いとは言え、自分の普段のアイデアとは違うところからのアイデアを少しずつストックしていくことは重要である。
イマイチ歯切れが悪くて評価し切れていないところだけど、それでもこういう本を読むべきだろうと思うのは、自分の思いつくアイデアだけで授業するべきではないと思うからである。
知るためには手間が必要
自分でAmazonなどで片っ端から本を買う財力や読みこなす胆力があるのであれば、書店に行く必要は無いのだが、現実にはそんな余裕はない。
だからこそ、書店に行って現物に目を通して、自分に必要な物を読んでいかないと、なかなか自分に必要な物と出会うことは難しいだろう。
例えば、こういう実践の本は、タイトルを知っているか、書店で出会わなければそれほど高い確率で出会えるとは思えない。
厳密に言うと実践の本ではないのだが、実践の成果として出てきているものであるからこそ、虚心坦懐に読むと授業のタネとして気づくことが多くある。
こういうノウハウによった実践紹介ではないところに、自分の授業が生まれる可能性があるのである。しかし、そういうものとの出会いは難しい。
大きな書店で自分で足を伸ばし、つぶさに本棚の本を点検していき、どの本が必要かと見極める作業が必要になるだろう。
余裕がないことの厳しさ
こういう授業づくりのための時間は徒労に終わることが多い。
そういうトロに時間を書けることが難しいのが、今の現場の一番の弱みだろう。そして、そういう仕事の仕方で20代の数年間を過ごしてしまうと、おそらく30代になってから自分で授業を作るということの意味を理解することは難しくなってしまうのではないか…。
余裕が生み出す物を大切にしたい。