
最近、若手の教員と話をしていて気づくことがある。大村はまや東井義雄、斉藤喜博といった名前を出しても、「まあ……うん?」という反応が返ってくるのである。
もちろん、知らないこと自体を責めるつもりはない。ただ、ああ、そういう時代なんだなぁ…と思うのだ。
仕方ないことだと思う
正直なところ、これは仕方ないことだと自分は思っている。
かつての「授業名人」たちの実践記録は、多くが書籍として残されている。
でも、今の若手教員が手に取る本は、もっと即効性のある「明日の授業で使える○○」といったタイトルのものだろう。それは責められることではない。目の前の授業をなんとかしなければならない、という切実さがあるのだから。
それに、情報の入手経路が変わった。彼らはXで実践報告を読み、YouTubeで授業動画を見る。情報源が多様化し、分散したのである。
加えて、教育を取り巻く状況そのものが変わった。
大村はまが『教えるということ』で語った世界と、今の学校現場は、似ているようで違う。「昔の実践」として距離を感じても無理はないのだ。
でも、きっと出会う
それでも、きっと彼らは、いつか必要な時にこれらの名前に出会うのだろうと思う。
教員としてのキャリアを重ねていくと、どこかで壁にぶつかる。「このやり方でいいのだろうか」「もっと深い学びを生み出すには」と悩む瞬間が来る。
あるいは、子どもたちの反応に戸惑い、授業の根本を問い直す時が来る。
そういう時、人は自然と原点を探し始めるのである。
表層的な技術論ではなく、もっと根源的な「教えるとは何か」「学ぶとは何か」を考えたくなる。そして、そのタイミングで大村はまの言葉や、東井義雄の実践記録に手が伸びる。
つまり、これは「知っているべきだ」という押し付けではなく、「必要になったら出会う」という信頼の問題なのだと思う。
伝統の継承という問題
もちろん、理想を言えば、若いうちから先達の知恵に触れておいてほしいという気持ちはある。だが、それを「知らないのはダメだ」という形で押し付けることには違和感がある。
大事なのは、必要な時に手を伸ばせる環境を整えておくことではないだろうか。
本が図書館に残されていること、実践記録がアーカイブされていること、そして何より、「悩んだ時にはこういう人たちの言葉が助けになるよ」と伝える先輩がいること。
伝統の継承とは、無理やり押し付けることではない。種を蒔いておくことなのだと思う。
だから自分は、若手が大村はまを知らないことに対して、「仕方ないなぁ」と思いつつも、「でも、いつか出会うだろうなぁ」と思っているのである。そして、その時が来た時に、「ああ、この本いいですよ」と差し出せる準備だけはしておきたいと思う。




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