ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

【書評】『公教育をイチから考えよう』を読んで考えること・その一

昨日のブログで、教育新聞の安彦忠彦先生の記事に基づいて、日本の教育が子どもを主体としたカリキュラムから社会からの要請を重視したカリキュラムへの変化することの問題点について思うところと、アクティブ・ラーニングですら画一的になりそうな日本の教育現場のあり方について思うところを述べました。 

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そのような状況のなか、日本の教育をどのように考えていけばよいのかという問いについて、大いに示唆に富む、リヒテルズ直子先生と苫野一徳先生の本が先日発売になりました。 

 

公教育をイチから考えよう

公教育をイチから考えよう

 

 

著者の名前を見ればわかるように、子どもの自由や教育制度・学校のシステムそのものに強く問題を持ち、具体的な提案をされている二人です。

そのお二人の名前を見るだけでも期待が大きいというのに、その期待を大きく超えるほどに、この本は大きな示唆を含んでいます。

昨日の予告通り、この本の内容を紹介しつつ、自分が教育について思うところを述べたいと思います。

長くなりそうなので、リヒテルズ直子先生と苫野一徳先生の主張の二回に分けて書いていきます。今回はリヒテルズ直子先生の主張に関してまとめてみました。

日本の教育の問題点をはっきりと指摘

リヒテルズ直子先生はオランダの教育を中心に研究されている方です。

ある意味で日本の教育の「内側」にいないため、日本の教育関係者が暗黙の裡に「誤魔化している」日本の教育の異常さを痛烈に指摘してくれています。

たとえば、学歴偏重の社会意識に対して以下のように容赦ない批判をしています。

長きにわたり続いた学歴社会と受験競争によって確立してしまった学歴偏重の社会意識(子どもの人間性尊重の欠如)、それがもたらした塾・教育産業の無節操な蔓延(次世代教育の営利事業化)、それが逆に学校関係者に次世代教育の責任の放棄を促していること(公教育の荒廃)です。 (P.16)

日本の教育現場にかかわる人間としてこれほど端的に、自分たちが棚上げしている問題を批判される一文はない。

結局、教員が一生懸命になっていることは、それができる範囲の誠実だとしても、目の前の子どもがカリキュラムで決められたことに遅れてしまわないように、時間をかけて指導をしたり手立てを講じたりすることである。

このような「誠実な」教員だとしても、その教員が指導できるのは目の前に子どもがいる間に限られるということに対して、批判的に考えている人はどれくらいいるのだろうか。批判的に考えたうえで、さらに何かしらの行動をしている人はどれくらいいるのだろうか。より根本的な問題はカリキュラムに子どもを無理やり合わせるということであり、「せめて目の前の子どもが苦労しない様にしよう」と色々とそのカリキュラムに子どもを当てはめようとすること自体に問題があるのではないか。

もちろん、このような「誠実さ」を取らざるを得ない理由として、本書の中でリヒテルズ直子先生も教育行政の管理的な指導のあり方が「教員たちが現場の子ども一人ひとりの全人的な発達を支援する際に必要な判断を下す自由裁量権を取り上げ」ていると「教育の自由の剥奪」という問題点を指摘している(P.16)。

しかし、そのことを「当然のもの」としてあきらめて、今やっていることを再生産し続けることの免罪符にしていないだろうか。自分はしてしまっているし、その息苦しさを感じているし、そんなこと言われてもどうにもならないという無念さを抱えている。

しかし、そのような後悔や無念さをいくら心に抱いたところで、やっていることは大人の都合に合わせた教育の再生産である。

そのような「大人の都合」に子どもを合わせることに対して、リヒテルズ直子先生は以下のように指摘する。

…まずは知識やスキルを身につけることが何よりも大事なのではないか…(中略)…という反論が生まれることは容易に想像できます。…(中略)…しかし、子どもたちにそれだけを押しつけていくと、つまり「自分の頭で考える」時間を与えずにそれだけを強制していくと 、独創性や思考力が著しく未発達な状態で大人になってしまうことが問題の核心です。(P.163)

もちろん、今やっている「知識やスキルを身につけること」を指導することを現状やめることはできないので、続けていかざるを得ない。しかし、それが「問題の核心」に対して何も解決を図っていないという「不誠実さ」というものを自覚するべきであるように思う。

結局、画一的な一斉指導(それがアクティブ・ラーニングだとしても、教室で「一斉に行う」ようなものであれば)では、「安心している教師のかげで、もうずっと発達が止まってしまっている子どもが放置されてしまう」(P.78)という意味で、いくら授業の方法を工夫したところで抜本的な改善があるようには思えない。

今回の次期学習指導要領改訂の審議のまとめ(案)については、「「何ができるよう
になるか」「何を学ぶか」「どのように学ぶか」の視点から」という言葉が散見されるように、一見すると「子ども」が「自由に」学ぶ、子どもに主体を置いたように見える構成になっている。しかし、昨日、安彦先生の指摘にあったように「社会に開かれた」という言葉に注目してみると、子どもの個性や多様性を尊重し、自由に「何を学ぶか」「どのように学ぶか」という視点が弱いということが感じられる。

自由な教育とはどのようなものか

この「自由な教育」という言葉が、かなり多義的で個々人で異なるイメージで使われているために、個人の立場に併せて恣意的に使われている点にも注意が必要であろう。

本書で述べられる「自由な教育」とはリヒテルズ直子先生が実際に見聞きしているオランダが実現している教育の姿である。

詳細については、本書を実際に見てもらいたいのだが、要点をまとめるのであれば、<よい教育>を決めるのは国だけではなく、子どもやその保護者であり、一人ひとり<よい教育>が異なるのだから、個別のニーズとテンポに合わせて学ぶことができる多様な選択肢があることや「個別の学び」を実現できるだけの教育の自由裁量権を教員や学校が持っていることを「教育の自由」としている。

つまり、オールタナティブ教育が充実しており、学校選択制によって、子ども自身や保護者のニーズに合わせて、自分にとって<よい教育>を選ぶことができるような制度があることや「どの子どもに対しても平等な教育(発達の機会)を与えたいならば、すべての子どもに不平等な教育をせよ」というオランダの教育界の言葉を紹介しているように(P.75)学校や教員が制度に縛られることなく、子ども個々の異なる発達段階を認めた教育を行えるような教育のあり方の重要性を述べている。

この教育の選択肢の数や学校や教員の自由という点については非常に日本は弱い。

もちろん、人口の大きさや民族や宗教による倫理観の違いなどの背景を抜きにして、「オールタナティブ教育をするべきだ」という主張にはあまり意味がない。本書によるとオランダは私立校についても学費が無償であるというような制度が取られているというが、日本の人口の規模や人口構成の現状でそのような制度を実現することは、ほぼありえないからだ。

しかし、「普通の人と異なる道筋をたどるとリスクが大きすぎる」というような発想を教育の現場が転換していく必要性はあるだろう。「リスクを負わせない」という言葉のかげで、硬直化して、対応力のない指導が繰り返されていることを見過ごしてはいけない時期にあるのではないか。

たとえば、色物扱いされている節もあるが、カドカワのN高等学校はオールタナティブ教育の選択肢の実例として考えうるものであるし、このような学びの方法が一般化していくことで、既存の学校の硬直化してしまっている制度や価値観が変化することを期待できるのではないかと思う。

このような学びの方法が正当なものとして成立するためには、本書でも最後に指摘されるように、「小学校修了、中学校修了、高校修了とは、いったいどんな能力を達成できたことを意味するかのかが不明」(P.206)と指摘されることを改善していく必要がある。

この「どんな能力を達成できた」かということが「コンピテンシーベース」の教育の目指すところであり、次の指導要領でも意図されてきている部分である。

しかし、このコンピテンシー自体があまりに社会の要請に近づきすぎると、個別具体的な「知識・技能」によることになり、単なる「コンテンツベース」の教育を「資質・能力」という看板を掲げで行うだけに過ぎなくなる。

それでは、結局、学校を選ぶ基準は「出口」の実績、競争の結果に過ぎないものであるし、オールタナティブではなく、単なる学校の序列化、子どもたちに競争によって勝者と敗者を分けるだけのものに学校は過ぎなくなる。

どの学校でも「資質・能力」は厳しく客観的に保証され、その上で、個人の特性に合わせて学び方や探究の仕方を選べるようなあり方が理想なのだといえる。

理想論と諦めますか。それとも。

このような壮大な話になってくると、正直、一兵卒に過ぎない自分には縁遠い話であるし、騒ぎ立てたところで何にも影響することができない。それどころか、壮大すぎてどこからどこまで、何をどうやって話したらいいのかが全然わからない(笑)。

しかし、そうなったときに、「大きな話だなぁ…」とか「理想論を言われてもね…」と言って、「自分のできることをやろう」と大きな問題の本質を見ないフリしていることも問題が大きいでしょう。

本書の中でも、そのような「学校はダメだから自分は自分ができることをやろう」という態度をとることを、教育産業に対しての言葉ですが、次のように厳しく批判しています。

大半の人が、「学校がすっかりダメになっているから、せめて自分にできることを」という思い で、「教育」事業にかかわっているのだと言います。彼らは、自分が営利の仕組みの中に組み込まれてそれをどうにもできないでいるのを内心では承知していながら、「子どものためにやっているのだ」と、自分だけではその仕組みのもたらす結果の責任から免れているかのような態度をとります。自分たちの行為が日本の公教育の歪みをますます大きくし、本来の姿に戻せなくしているということへの責任を、彼らはどれほど感じているのでしょうか(P.10)

あくまで、上の引用部については、教育産業に対する批判でありますが、公教育、学校にかかわる人間にも十分に意味のある批判でしょう。

「平均に」遅れないように指導することに終始することは、「平均」に遅れることを許さないという前提があり、それは結局、「平均」よりできる子は「できる子」であり、「平均」に満たない子は「できない子」という前提があるのだから、本質的には教育産業が入試の難易度で学校を序列化し、競争を煽って、勝者と敗者のレッテル貼りをしていることと何が異なると言えよう。

こんなことを言うと、進学率で集客をせざる得ない私立の教員としては天に唾をするようなものであるし、自分のやっていることと言っていることの大きな矛盾に気持ち悪くなる。

しかし、無視してはいけない、つまりは「自分はこれだけのことをやって卒業させたぞ」と次の学校に問題を押しつけているだけではいけないと、強く反省が必要だと思う。

では、どのような教育の形がありえるのか。その答えの方向性を示してくれるのが、苫野一徳先生の「哲学」の立場からの教育の本質の指摘だ。その内容については……次回に続く…!

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