書評をきちんと書く気力も湧かないくらいに腑抜けモードなので雑記としてグダグダと……。
昨日の南多摩中等教育学校を見てきた余韻を引きずりながらの読書の結果、出てきたとりとめのない思考の垂れ流し。
足並みはそろわないだろうな
のっけから絶望的な気持ちになっているが、「総合学習」にしても「探究」にしても、おそらく学年企画として行われるものは、このままズルズルと足並みが揃わないでやっていくことになるのだろうなと思う。
自前の「総合学習」を行っていた時は、「こんな何やっていいか分からないものやっても意味がない」とごねる人がいたのでパッケージ化されたものを持ってくれば「自由に生徒がやれないのだから意味がない」とごねる。どちらも同一の人々が発言しているので嫌味の一つも言いたくなるが……まあ、学校や学年として腹が決まるまで話し合いが出来ていない現実が根深く影響しているだろうと思う。
自分は勤務校においては新参者なので、大人の事情でやれるだとかやれないだとか議論していることに割とイラつきがあるのだが、文句を言っても困るのは良心がある人である。理不尽だ。
一方ではどこかで足並みをそろえることを考えながらも、一方で四月からたった三年間もしくは六年間しかない生徒の学校生活のことを考えると、グダグダと待っていられない気持ちが正直なところ。自分だけでもやれることをやってしまったほうが早いと思うのだが……そのルートは行き止まりだということも見えるので歯がゆい。
探究は環境から
昨日の南多摩中等教育学校を見ていても、他の色々な事例を見ていてもつくづく思うが、探究は学校としての文化である。探究することに価値を認めて、どうしてここで学ばなければならないのかということに、子どもにも大人にも覚悟がなければ継続して粘り強く取り組むことは難しい。
子どもが本気でやっていても大人が「それは出来ない」「それはやるな」「時間がない」なんて水を差していたらバカバカしくてやっていられないだろう。
探究の文化が積み重なることで得られる財産は多い。例えば具体的なイメージはお茶水女子大学附属中の以下の本を読むと得やすい。
自分の“好き"を探究しよう! ――お茶の水女子大学附属中学校「自主研究」のすすめ
- 作者: お茶の水女子大学附属中学校
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2018/11/02
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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生徒や卒業生のコメントが雄弁に物語るのである。
そのような文化が出来上がるまでの長い実践の歴史も本書の読みどころであるが、探究を支える洗練された指導の工夫も見逃せない。
育った生徒も蓄積された指導法のどちらも学校にとっての財産である。ゼロから始める場合、その蓄積を作り出すためには大きな投資が必要だろう。それだけの労力を割ける余裕があるのかな……。
探究の場所としての図書館
個人的に勤務校で探究を本格的にやるならばもう少し図書館を大切にしてほしいと思っている。一番貸出数が多い本は赤本だなんて状況が毎年続いているような状況では、やはり苦しい。毎年、予算を減らされていることも気がかりである。
過去、総合学習の際に図書館を使おうという話や使いたいという声が出てきたことがない。それくらいに図書館が遠い場所になっているのを改善したいと思うのである。
探究や総合学習をやるならば図書館を使って当たり前という感覚を伝えるところから始めないといけないなぁ……。せっかく習得したのに司書教諭になれないので、なかなかどこから始めるかも難しいのですが…。