ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

ダメ出しにしない

新学習指導要領になって自己調整学習の話が話題になることは多い。

 

 

厳密な意味での自己調整学習を実践するのはかなり厳しいなぁ…と思っているところであるが、様々な機会に生徒が自分の学びを振り返る機会を持たせたいとは思うものです。

振り返りが作業になっていないか

色々な機会に生徒に対して振り返りを書くことを指示する機会が増えている。使い道のよく分からないキャリアパスポートはその最たるものであり、ひたすら書かせることに主眼がある気がしてならない。

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この手の上から指示される振り返りは、指導する側も生徒側もひたすら書かなければならないので、作業になりやすい。

ただ、ただ、他人事に定型文を写経するような、そういう手の運動以上の意味が見いだせない作業になってしまいがちなのだ。

本来の振り返りの目的が、生徒自身の自己調整によって自律して学べるようになることであるはずなのに、作業を重ねれば重ねるほどに自分で何を調整してみようという気持ちがと姿勢が削がれていくのである。

文字が埋まっていることに指導する側が満足してしまい、内容を問わずにいることでいっそう作業になることに拍車をかけている。

振り返りが懺悔になっていないか

子どもたちが書いてくる振り返りが、懺悔になってしまっていないかということに注意したい。

つい、振り返りというと自分の出来なかったことに焦点を当て、自分がいかに情けないのかということを見つけ出し、次までに何を改善するのかということを懺悔させられるような文体になりがちである。

そして、指導する側も生徒が悔い改めるような態度の文章を書いていることによって、満足してしまいがちなのだ。

もちろん、子どもたちが書き綴る形式的な懺悔の言葉にはあまりにも意味が無い。形が同じ、懺悔の言葉を何度も読むことになると、心の底から暗澹たる気持ちになってくるように感じる。

確かに改善や調整のために振り返りを書いた方がよいのだが、その改善や調整のあり方が出来ないことを責め立てられるような形にはならないほうがよいと思うのである。

のびのびとした自己調整を

押し付けられる振り返りだからこそ、面白くなくなってしまうのである。

書きたいことを書きつつも、ちゃんと自分のきた道を思い返すような形で振り返りを考えていきたいと思う。

 

 

自分のことと向き合うのは、支援されて練習しないと難しい。

でも、それを一斉にやらせると、ただの作業になるのだ。その作業が習慣となってきた生徒のメンタリティは簡単には変わらないことに、厳しさを覚える。

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