他人の授業を見ると、何が必要で何が足りないかということは割と分かりやすい。特にそれが自分よりも後輩の授業であれば、授業の所作のようなところではっきりと何が足りないかは分かる。
自分も学ぶべきことは少なからずあることは間違いないのだけど、それはそれとして、流石に経験値の差もあるので、何でもかんでも学ぶことという言い方をして、明らかに改善点であることをきちんと言語化しないでいるのは不誠実である。
ただ、少し思うこととしては、そもそもの教育観、つまりは教えるということ、授業とは何かということについて、大きく価値観に差があるときに、何か伝えられることがあるのだろうかということだ。
たぶん、自分が教えたいということが先にあり、そして、言語活動を眠気覚ましのついでくらいにしか考えていない相手に対して、色々な指摘をしても徒労になるのだろうという気がしている。
自分は自分が教えることに初めから執着がない。自分が授業で教えられてきたという実感がなく、むしろそこに居させられるだけのことにストレスを強く感じていたからこそ、そこにいるだけの授業というのはやりたくないのである。
もちろん、これは自分の個人的な授業観や教育観であって、それを押し付けるような気はない。変わらないものは変わらないし、自分だっておそらく変わらない。
ただ、ものの「ついで」であっても、何か生徒に表現をさせよう、活動をさせようとするのであれば、生徒に「はい、やって」と丸投げするのではなく、ちゃんとどう学ぶべきかを指導できる教員でありたいものである。
その点から考えると、やっぱり活動をさせると思うなら、色々な準備をするべきなのだろう。
もう六年も同じようなことを考えてきている気がする。
しかし、やっぱりなかなか、共有できる場面とそうでない場面は多いのだ。